ライトノベルが巡る恋愛の世紀末

 

本論考は、2014年の夏のコミケにて出版した同人誌に乗せた論考である。手入れすることも考えたが、引用した主要な著書のリンクを追記のみをし、公開している。

1.はじめに

東浩紀氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』にてライトノベルを巡る言説について以下の予言をした。

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実際にいまネットでは、上遠野浩平のデビューに切断を見いだし、ライトノベルの可能性の中心をセカイ系や一般文芸との境界的な作品に定め、『スレイヤーズ!』や後述の『ロードス島戦記』から切り離して考える言説が現れ始めている。

(『ゲーム的リアリズムの誕生』,p.111)

2014年現在において、この予言は外れたと言わざるを得ない。セカイ系上遠野浩平氏の作品『ブギーポップは笑わない』もライトノベルを巡る言説の俎上にあがることはもはや稀だ。またその事実を東浩紀氏本人も認めている。

まずは「セカイ系」という言葉から始めましょう。

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この言葉はほとんど聞かなくなりました。それでもそれは、ゼロ年代の日本文学を論じるうえで、かつて避けて通れないキーワードでした。

(『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』,p.15)

セカイ系ライトノベルで描かれるジャンルとしてもはや過去のものとなっている。現在のライトノベルは多種多様なジャンルがひしめいている。『とある魔術の禁書目録』が代表的な学園異能バトル、『人類は衰退しました』等の根強い人気があるSF、そしてWeb小説から人気が再燃した異世界ファンタジー等など。もはやライトノベルにおいて中心的なジャンルなど存在せず、読者の趣向は分散していると評されても間違いはないだろう。

しかし現在、強いてライトノベルの中心をあげるのであれば、平坂読氏の『僕は友達が少ない』、裕時悠示氏の『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』、渡航氏の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』等の学園ラブコメと呼ばれるジャンルに属する作品になるだろう。

上記に挙げたライトノベルには共通点が存在する。それは主人公が通常の恋愛をすることを否認していることにある。

僕は友達が少ない』の主人公羽瀬川小鷹はハーフであり、地毛がくすんだ金髪が特徴である。しかしそのくすんだ金髪のせいで髪を染め損なったヤンキーと周囲に誤解され続け、幼少期から友達がまったく出来ない。また笑顔が怖い、目つきが悪い等の要素も誤解に拍車をかけている。その結果、転校後、入部した隣人部のメンバを初めて出来た友人として大事に思っている。だが友人関係を尊重するばかりに柏崎星奈が隣人部全員の前で小鷹に告白された際に、友人関係が崩壊することを恐れ、誤魔化そうとする。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の主人公比企谷八幡は女生徒達の表面だけの優しさに裏切られたり、中学時代に告白して振られた事を告白相手に言いふらされて笑い物にされるなど恋愛に関してトラウマがあり、好意を寄せるヒロイン達に対して及び腰になってしまう。

最後に『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』の主人公季堂鋭太は息子からみても過剰に愛し合っていた両親が徐々に不仲になり、中学3年の夏に主人公を置いて、お互い密かに作っていた恋人と二人揃って蒸発した。その経験から恋愛全般に対し強固な不信感を持ち、「恋愛アンチ」を自負している。

主人公の立場、恋愛に対する考えなどには多少の差異があることが分かるが、彼らは共通して恋愛に対してネガティブな感情を持っていることが分かる。

しかし奇妙なことに上記の全てのライトノベルはラブコメである以上、主人公とヒロイン達は恋愛関係を進行させようとする。主人公達は恋愛を諦め(否定)している為、ヒロインとの恋愛は歪つな形でのみ進行していく。例えば『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる8』ではヒロインの助言に従い、恋愛アンチを自認していた季堂鋭太は自らの考えを歪め、通常の恋愛に対するアンチを貫きつつものヒロイン達と自らの幸せの為にハーレムを形成することを決心している。

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――俺が救ってやる。

千和も、真涼も、ヒメも、あーちゃんも。

ぜんぶまとめて、俺が愛してやる。

だけど心は渡さない。

俺は絶対に誰も好きにならない。

恋愛アンチを貫き通したまま、全員を愛してやる。

 

誰よりもモテまくりで、誰よりも孤独な男の誕生だ。

 

恋愛脳ども、活目せよ!

俺という存在に戦慄せよ!

 

偽りのハーレム王。

 

それが、これからの俺の夢だ!

(『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる8』,p.240)

季堂鋭太の選択は現在のライトノベルにおいて、決して異常な選択ではない。ライトノベルにおいて主人公が恋愛を望まない(もしくは通常の恋愛が出来ない状況に追い込まれる)ながらも、恋愛をしなければならないという状況に追い込まれるというのは稀ではない。

例えば『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』では高校生の主人公甘草奏が「絶対選択肢」と自ら名づけた望まない能力のせいで、変態じみた行動を余儀なくされる。その結果、甘草奏は美形でありながらも女生徒から嫌悪されている。「絶対選択肢」から解放されるには携帯に届くミッションをクリアする必要があり、そのミッションを通じて甘草奏の周りに居る「お断り5」と呼ばれる一風変わったヒロイン達と交流を深め、恋愛をせざるを得ない環境に追い込まれていく。

また他ジャンルである異能バトルのライトノベルにおいては、異能を獲得する契約としてヒロインとキスをするというモチーフが頻発する。『国家魔導最終兵器少女アーク・ロウ』では無力であった主人公エルク・リードが、世界を変える能力を得る為に、人型兵器(無論、美少女ではある)イスカと主従契約のキスを実施するというのは典型であろう。

特に異能バトルのライトノベルにおける恋愛は主人公とヒロインのコミュニケーションの結果、成就するものではなく、主人公とヒロインが何かしらの困難な状態を乗り越える手段として恋愛的だと思われる行為を実施せざるを得ない状況に追い込まれるという迂遠な経緯を辿ることが多いと指摘出来るだろう。

以上からライトノベル全体に通底しているモチーフとして(1)「 主人公が通常の恋愛の実施可能性を否認していること」、(2)「主人公が通常の恋愛の実施可能性を否認した結果、歪な形での恋愛が成就すること」があると指摘出来る。

私は上記にて指摘した2つのモチーフから以下の推論を導く。

ライトノベルとは恋愛の不可能性を前提にした恋愛小説ではないか”

上記推論を検証する為に本論文では東浩紀氏がライトノベルの可能性の中心と見出したセカイ系や一般文芸との境界的な作品が徐々に後退し、恋愛の不可能性を前提にした学園ラブコメが中心になった経緯を述べていく。

第2章「恋愛の不可能性について」では典型的なセカイ系作品とされる『イリヤの空、UFOの夏』を取り上げ、東浩紀氏や宇野常寛氏によるセカイ系の批評を検証していく。その検証の中でライトノベルの主要なテーマが“恋愛の不可能性を前提にした恋愛”に移行した経緯を明らかにする。

第3章「青春の肥大化について」では『僕は友達が少ない』を取り上げ、青春という虚構が持つ過剰なまでに外部への参照を強要する機能を隣人部というクラブ活動によって表層的に否定し、虚構的な関係が創りだす功罪について検証する。

また第4章「以下性という希望」では第2章、第3章の検証を通じて判明した構造的な恋愛の不可能性を整理する。そして最後には“恋愛の不可能性を前提にした恋愛”という困難なテーマに1つの希望を与えた『人類は衰退しました』を紹介する。

2.恋愛の不可能性について

本章ではまずライトノベルにおけるセカイ系について論ずる。セカイ系を巡る代表的な言説は東浩紀氏による『ゲーム的リアリズムの誕生』におけるセカイ系の定義と、宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』によるセカイ系に対する批判がある。

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まず東浩紀氏のセカイ系の定義から確認しておく。

けれども一般には、主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結させる想像力を意味するものと理解されています。必ずしも文学作品においてのみ現れたものではなく、初期の代表作として、(中略)秋山瑞人ライトノベルイリヤの空、UFOの夏』といった作品がよく挙げられます。

(『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』,p.15- p.16)

セカイ系の作品に対する毀誉褒貶は著しく、「セカイ系の作品は、物語内で世界の危機を描いているようでいて、実際にはリアリティのない子供だましの設定しか導入していない」という指摘があるのは事実だ。これは主人公である僕が住む現実の世界を模した日常パートとヒロインが住む「世界の危機」という非常事態、つまり戦争が描かれる非日常パートという2つの解離しなければならない状態が、キミとボクとの恋愛関係という最小限の関係性によって容易く直結されているように解釈出来ることに原因が求められる。

ただしこのような批判は笠井潔氏の「キミとボク(略)が「引き裂かれ」てしまうリアリティにセカイのセカイ性は込められている」という指摘を理解すると、批判される短所であるリアリティの無さは反面、別のリアリティを引き出す技法であることが分かる。セカイ系におけるリアリティとは作品内に描かれた「世界の危機」の現実的なリアリティに依拠するのではなく、非日常と日常が容易く入れ替わることで偶然交わったキミとボクのセカイが、反復を繰り返すことによって露わになるセカイの不安定性によって引き裂かれるという社会的不安にこそ依拠していることが分かる。

「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結させる想像力とは、個人の力では太刀打ち出来ない離別に対する不安や恐怖を現代的に捉えるための想像力と言い換えても良い。東浩紀氏も

僕の問題意識においては、セカイ系とは、文学の問題というより、むしろ社会の問題だったのです

(『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』,p.17)

と指摘している。

以上の東浩紀氏のセカイ系の定義を前提に宇野常寛氏のセカイ系に対する批判を確認する。宇野常寛氏は東浩紀氏のセカイ系に対する定義を強く意識している。その為か、セカイ系における代表作として東浩紀氏と同様に高橋しん氏の著作である漫画『最終兵器彼女』、新海誠氏が監督を務めたアニメーション『ほしのこえ』、秋山瑞人氏の著作であるライトノベルイリヤの空、UFOの夏』を挙げている(宇野常寛氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』p.96に記載されたセカイ系の代表作をそのまま挙げている)。宇野常寛氏は東浩紀氏に依拠しつつも、セカイ系に対して厳しく批判をする。

凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(たいてい世界の運命を背負っている)がいて、彼女は世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される。

したがって「セカイ系」において、「終わりなき日常」を超越する意味=物語は、このような「無条件で自分にイノセントな愛情を捧げてくれる美少女からの全肯定」で満たされることになる。これはキャラクターへの承認が母的な存在によって無条件に得られるという点において、九十年代の「引きこもり/心理主義」のもっとも安易な形での完成形だと言える。(『ゼロ年代の想像力』,p.83)

宇野常寛氏特有の用語である「引きこもり/心理主義」について補足すると、「引きこもり/心理主義」とは母的な存在(女性キャラクター)によって主人公の少年の意思が無条件で承認されることによって、全能感を獲得しようとすることを指している。

また宇野常寛氏は『イリヤの空、UFOの夏』をライトノベルにおけるセカイ系の代表として名指しで批判する。

高橋しん最終兵器彼女』、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』のヒロインもまた、主人公の少年の代わりに「決断」し、手を汚していた。「セカイ系」とは、九十年代後半的な「~しない、というモラル」を主人公に貫徹させるために、自分だけではなく他人(戦闘美少女)に決断させ、そして彼女に無条件で必要とされることでその結果だけを享受しようとする態度に他ならない。まるで、渡辺淳一愛の流刑地』で、ヒロインが主人公に「殺して」と自ら求めることで、彼女を殺害した主人公が精神的に免罪されたように。

セカイ系」とは、その支持者に「~しない、という(九十年代後半的な)モラル」の貫徹であると主張されるが、実際には「自分で責任を取らず、その利益のみを享受する決断主義」でしかないのだ。

(『ゼロ年代の想像力』,p.129-129)

この批評は『イリヤの空、UFOの夏』に対する典型的な誤読である。しかしこの誤読こそが、ライトノベルにおけるセカイ系の本質を、そしてライトノベルのテーマが“恋愛の不可能性を前提にした恋愛”に移行した原因を読み解く上でのヒントになる。

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ここで遅くなったが、『イリヤの空、UFOの夏』について簡単に説明する。『イリヤの空、UFOの夏』は2001年から2003年にかけて出版された秋山瑞人氏原作のライトノベルである。

主人公浅羽直之は夏休みに最後の思い出として一人で夜遅くのプールに忍び込んだ。だがプールには先客として手首に金属の球体を埋め込んだ謎の少女伊里野加奈と出会う。一夜限りの出会いだと思っていが、伊里野は浅羽と同じクラスに転校してくることとなる。転校後、伊里野は学校生活に馴染むことをしなかったが、浅羽との映画館デートや文化祭デートで伊里野は心を徐々に開き、浅羽を基点としたクラスメイトとの交流によって徐々に学園生活に馴染んでいく。伊里野との交流を通じて、浅羽は「世界の危機」、つまり地球がUFOの侵略を受けていることがゴシップではなく、事実であることを知っていく。そして伊里野がUFOに対抗できる重力制御機関を搭載したブラックマンタと呼ばれる戦闘機を操れる数少ないパイロットであることを知る。

UFOの侵略があっても終わることの無いと思っていた伊里野との日常(セカイ)は、UFOの侵略の激化によって終焉を迎える。伊里野は兵器として酷使され、学校に来ることさえままならなくなる。しかし伊里野にとって浅羽と一緒にいることが一番重要になり、かつはじめて生きて帰りたいと思うようになり、出撃を回避したいと思うようになった。伊里野は浅羽に、現状を告白する。浅羽は悩みつつも、このまま伊里野が使い潰されることを拒否し、共に学校を脱走し、潜伏生活を初めた。

しかし潜伏生活は長くは続かない。逃亡を続け、ようやく見つけた潜伏先である学校でホームレスの吉野とノラ猫校長との営んでいた奇妙な擬似生活は吉野が伊里野を強姦しようとして返り討ちにあった事件がきっかけとなり、崩壊する。

長期化した社会の庇護下にない生活、伊里野との軋轢などのストレスによって浅羽は暴言を吐き、伊里野を否定をする。その結果、限界にあった伊里野は壊れ、浅羽を認識できなくなると共に、記憶が時間を遡っていく結果となる。記憶の遡行中で浅羽は伊里野を連れて歩くが、浅羽として認識されることなく、常に別人としての役割を与えられる。そんなカウンセリングのような状態の中で、浅羽は伊里野の秘めた思いを知ることになる。伊里野と共に生きるという決心を改めて強くし、逃亡先である祖父母の家に到着したが、そこにはすでに伊里野を回収する榎本がいた。榎本は浅羽に伊里野と浅羽の出会った経緯を説明し、浅羽に伊里野と共に逃げ出す機会すら与えたが、浅羽には社会に抵抗する力は残っておらず伊里野が回収されるのをただ見届けるしかなかった。

日常に帰還したと思った浅羽は伊里野を失ったという事実を、友人に失恋したという指摘を受けることで日常に回収させた。しかし日常に回帰された浅羽は唐突に機関の人間によって回収される。それは伊里野が浅羽に否定された後の記憶を失っていた為、気がつけば基地に居たように思えた為である。そのため、浅羽に完全に見放されたと思い、自暴自棄になり戦闘を拒否することになる。浅羽が登場し、伊里野の正気を取り戻させる。そして、浅羽が伊里野の為ならば世界を敵に回してもよいと宣言したことにより、これまで「浅羽がいるから死にたくない」だった気持ちが、「浅羽のためなら死んでもいい」という気持ちに昇華され、最終決戦に出撃した。

浅羽は兵士に拘束され、最終決戦の詳細を知ることもなかったが、日常に無事帰還し、日常が終わらなかったことから最終決戦にて人類が勝利したことを知る。だが伊里野は帰還しなかった。浅羽はひとりでミステリー・サークルをつくろうと決心する。

結末部分の纏めが粗雑であることは許して頂きたい。ここは秋山瑞人氏があえて結論を描写しなかった部分であるからだ。だが宇野常寛氏の「彼女に無条件で必要とされることでその結果だけを享受しようとする態度に他ならない」という単純な批判に該当する箇所は『イリヤの空、UFOの夏』には存在しないことは分かって頂けるだろう。

イリヤの空、UFOの夏』では伊里野がUFOの侵略に対抗した詳細を浅羽は知り得ないし、浅羽が伊里野と逃走した詳細を伊里野は知り得ない。むしろそれでも2人は2人の為に行動し、その結果が社会を経緯して、匿名的に社会に還元されていると指摘すべきだろう。社会を経由して間接的に結果を享受したことを、セカイ系の悪質であると難癖することは可能であるが、それはセカイ系を否定する批判ではなく民主主義社会における対他関係を否定する的外れな批判に終わる。重田園江氏は社会の匿名性を以下のように表現している。

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国民と見なされた人間は匿名化されている。というのは、誰が誰に対して、という対面的な関係、固有名を持った存在としての対他関係(ニーズとケアの関係)がいったん断ち切られるからである。そのために、国家構成員はまず、保険料や税として金銭を公的機関に納め、それらの機関を通じて、必要があると認められた人に、保険給付や扶助、公的サービスとして、金銭や物品、さまざまな便益が提供される。こうしたプロセスを経ることで、財の一部を社会に提供することは国民の義務として、助け合いの関係は国民という抽象化された個人間の権利―義務関係へと置き換えられる。

(『フーコーの穴』,p.170)

民主主義への参加は個々人の相互の認証に依存されてはならない。その代わりに公的機関による国家構成員の保証によって成り立つ。匿名性とは社会からの管理によってのみ裏打ちされている。この点からむしろ『イリヤの空、UFOの夏』において注視しなければならないのは、伊里野と浅羽の意思決定=恋愛が間接的に管理されていることである。2人の意思決定を間接的に制限し、結果を誘導しようとする機関の態度は最終巻で、一隊員からの手紙による告白で分かる。その手紙には伊里野と浅羽の出会いが“子犬作戦”という悪質な戦術であったことが記載されていた。

伊里野は浅羽と出会う前は同じパイロットの仲間を守ることをモチベーションに戦っていたが、最終的にパイロットがイリヤ1人のみとなり、戦う理由がなくなってしまった。

“子犬作戦”とは生きる意思さえ失くした、伊里野のモチベーションを回復する為の作戦であった。機関は伊里野を学校に通わせることにより、学校のクラスメートを含む世界(=子犬)に情を抱かせ、戦う理由を与えようと目論んだ。結果、この作戦は成功し、浅羽の為にならば「浅羽のためなら死んでもいい」とまで思わせることまで出来た。

子犬とはもちろん、あなたのことです。

あなたを含めた、この世界全体のことでもあります。

伊里野に子犬を与えて、今日からお前がこいつの面倒をみろと命令して、情が移ってかわいくて仕方がなくなってきたころにその子犬を取り上げて、こいつの命が惜しかったら死ぬまで戦えと命令する。――私たちのやっていることはそれと同じだ、というわけです。

(『イリヤの空、UFOの夏』,p316)

伊里野は少女であっても、世界ではない。むしろ社会を防衛する為に使役される代わりのない道具でしかない(それは同じブラックマンタのパイロットであるエリカが撃墜されたエピソードからも分かる。)あくまでブラックマンタを操縦出来るパイロットが必要なのであって、伊里野という人間そのものは社会にとっては無価値である。伊里野という人間であることは保証されていても、伊里野という人間である性質は無価値なのだ。

また同様に社会にとって浅羽という人間は無価値である。あくまで伊里野という少女が望んだ“子犬”が浅羽という人間であっただけであって、社会にとって必要なのは伊里野という少女が希求する“子犬”という役割でしかない。

宇野常寛氏が指摘した全能感の回復はあり得ない。宇野常寛氏の誤読は東浩紀氏が擁護したセカイ系から批判する際に、恋愛「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結させるという意味を、単純にセカイ系に登場する少女を巫女のように世界を代表する存在としたこに起因する。世界を代表する母的な存在に承認されることで全能感を回復することはエヴァンゲリオン的ではあるが、『イリヤの空、UFOの夏』では伊里野はただの兵器でしかない。そして仮に伊里野からの無条件の承認を受けても、背後には常に社会からの非承認(子犬作戦)が隠されている。

イリヤの空、UFOの夏』では社会による抗えない排除というテーマに貫かれている。

デイヴィッド・ライアン氏は社会による抗えない排除を以下のように表す。

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監視という社会的オーケストレーション様式は、道徳性や正義といった何らかの共有された基準でなはなく、純粋に功利主義的な規範にしたがって作動するので、正義という言語を迂回して進んでしまうのである。それは、生活状況を道徳面での吟味から切り離す役割を果たす。それは分類メカニズムによって、端的にそれ――メカニズム――以上の何者でもないものによって機能する。官僚制と同じように、個人的責任・感情・情動・道徳判断は排除される。けれども、、その自己言及的な特性にもかかわらず、それを実に効率的に機能する。そこで創出されるデジタルなペルソナ、相補的なコンピュータの自己は、その原型に当たる人間側から認識されないかもしれないが、しかし、後者のライフチャンスに根本的に影響を与える。

(『監視社会』,p.117-118)

大多数の最大幸福の原則に沿った機能を許容することは、自動的に弱者がリスクを背負うことを意味している。もし仮にこの社会の管理から逃げ出そうとしても、間接的にライフチャンスに影響を与えることで徐々に社会から排除される。

イリヤの空、UFOの夏』において主人公である浅羽は二度、社会からの排除に直面した。ただこの社会からの排除は決して、社会からの管理からは逃れることを意味しなかった。社会からの恩恵が与えられなくとも、義務を果たすことを要求される。浅羽の場合、結果として伊里野を戦場に追いやったように。

浅羽は社会の管理の支配下である日常にも、非日常にそのまま帰還することを拒否する。ブラックマンタを操る伊里野が居る空から見えるミステリー・サークルを作り上げることによって。

殆どの人にとって浅羽がミステリー・サークルを作る意味を理解出来ない。『イリヤの空、UFOの夏』においても、もう一人のヒロインである須藤晶穂は浅羽の行動を理解できないことが描写されている。もはや浅羽は伊里野との恋愛関係を構築したセカイが確かにあったと自らに宣言することしか出来ないのだ。それも誰かに理解を求めることも出来ない為に、儀礼的とも言えるミステリー・サークルを作り上げるという行為で。

笠井潔氏の「セカイ系における(略)セカイは、現実的な日常空間でも妄想的な戦闘空間でもない。前者に属する無力な消炎と後者に属する陰惨化した戦闘美少女が接触し、キミとボクの恋愛空間が生じる第三の領域がセカイなのだ(『ライトノベル研究所説』,p149)」という指摘は正しい。ただそのセカイ(恋愛関係)は常に社会からの侵略を受け、崩壊する不安定性を内包している。だからこそ浅羽はミステリー・サークルをつくることによって、セカイが社会からより遠くにあることを夢見たと指摘出来る。

イリヤの空、UFOの夏』から、セカイ系において恋愛は夢見ることは出来ても、成就することが不可能になったことが分かった。恋愛の不可能性は日常と非日常との往還によって新たに発生したセカイが、社会による要請によって容易く破壊されることによってもたらされる。その破壊から逃れる為に、もはや手遅れだと分かっていても浅羽は恋愛関係の擬似的な成就として儀礼的にセカイを社会から切り離そうとしたことが読み取れた。次章の『青春の肥大化について』ではライトノベルにおいて社会からセカイの切り離しがどのように行われたかを検証する。

3.青春の肥大化について

青春という現実は誰にとっても存在しない。

現に青春を生きている者にその自覚はない。状況に対する無知、青春に生きている現実を理解しえぬことこそが、青春の要件である。その一方、青春を対象化して語る者は、すでにそれから疎外されている。

(『青春のディストピア』,p32)

松里末理氏が指摘した青春の要件は重要である。『涼宮ハルヒの憂鬱』では、ヒロインである涼宮ハルヒの青春に対する鬱屈が直截に表現される。宇野常寛氏は鬱屈をイソップの寓話にたとえ「酸っぱい葡萄」的な構造と指摘する。しかし松里末理氏が指摘した青春の要件から考えると別の構造が浮かび上がる。涼宮ハルヒは青春を過ごすはずの学校に属し、学園生活を営んでいる。にも関わらず青春を対象化して語っている。

それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でもそうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなのどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの回りの世界が色あせたみたいに感じた

(『涼宮ハルヒの憂鬱』,p225-226

つまり涼宮ハルヒは自らの青春とその他の普通の青春とを相対化せざるを得ない状態にあると言える。それはすでに青春から疎外されていることを意味しないだろうか。

松里末理氏は米澤穂信氏の作品を例にとり青春を以下のように分析する。

米澤作品の主人公には、自分で道を決められないも者が多い。彼らは常に外部を持っている。確かにそれは「未熟」かもしれない。しかし未熟であるからこそ成熟へのポテンシャルが開けているというのもまた、論理的な関係性である。未熟でなければ成熟することもない。

(『青春のディストピア』,p42)

論理的な関係性と表現された外部への参照はライトノベルにおいては機能することが困難になっている。それは『イリヤの空、UFOの夏』で読み取ったようにセカイを社会から切り離すのではなく、参照する理想的なモデルを否定するという行為を限られたメンバで共有するという儀礼的な振る舞いによって実現している。このような青春、もしくは青春の代表的な経験である恋愛体験を否定するライトノベルの代表に『僕は友達が少ない』がある。

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僕は友達が少ない』は、自分には友達がいないと信じている主人公長谷川小鷹らが、「隣人部」なる部活をつくり、部活動と称して友達づくりの練習をする日々を描いたライトノベルである。『僕は友達が少ない』の特徴を良野通氏は以下のように纏める。

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小鷹たちと読者との世界には差異がある。例えば、隣人部のメンバーは昼休みに一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行く。そして間違いなく、その活動を楽しんでいる。読者の立場から見れば、小鷹たちは友達だと躊躇せずに言えるかもしれない。だが、登場人物たちはみな、自分には友達がいないと主張する。このズレは「友達が少ない」という作品外の規定と「友達がいない」という作品内の規定との齟齬によって、自覚的に示されたものと考えられるのである。

(『ライトノベルスタディーズ』,p.235)

そもそも学校は社会を学ぶという目的の為に、社会から隔離される場と指摘出来る。隔離された場として機能するには社会とは異なったルールで動くことが必要となる。その明文化されないルールの束こそを、青春を営む条件であるとも言える。一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行く。それらの1つ1つは青春として明文化はされていないが、外部から青春を対象化して語るときにはそれらの行為を青春と総括する。

対象化されたと自覚しなければならない状態にもし長谷川小鷹は青春が色褪せることを望むだろうか。望まないだろう。また望む望まないを問わず、学校の隔離はうまく機能していない為、いたるところに穴が空いている。多孔化した学校は社会から様々な経路で、理想的な青春の過ごし方を押し付けられる。『イリヤの空、UFOの夏』で読み解いたように日常は容易く揺さぶられる。長谷川小鷹らは外部への参照を避けて、隔離という機能のみを機能させるかを戦術的に選択する。良野通氏は長谷川小鷹の戦術を以下のように纏める。

したがって隣人部での活動は、それが小鷹たちにとって「本当の友達」に相当する関係だから楽しいのでなく、そうではないからこそ楽しいのだ。理念的な「本当の友達」が常に存在を否定され続けているからこそ、彼らは安心できる。隣人部の面々は、自分たちには「友達がいない」と前提することによって生み出した、「友達がいない」と前提することによって生み出した、「友達」という空虚な言葉に形を与えないよう戯れている。言うならば、虚構の世界を生きているのである。(中略)理想は、「こうである」という肯定の形ではなく、「こうではないもの」という形をとることになったのである。

(『ライトノベルスタディーズ』,p.243)

良野通氏が指摘した通り、隣人部の活動はそもそも、友達付き合いの練習をする部活動である以上、本物ではないという留保がついている。その為、何をやっても本物ではないと否定することが許される。理想を否定するのは簡単である。全体を見渡すことのない曖昧な青春という状態を肯定するよりも、個々の一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行くという個々の場面を実践し、隣人部の活動では出来ないと結論付ける方が容易く実現可能だからだ。

長谷川小鷹らは参照する/提供されるというモデル自体を否定するのではなく、モデルを構成する1つ1つの事例に対して実現不可能だと否定した。参照する/提供されるという不可避な社会構造を否定するのではなく、“理想的な青春”を1つのモデルとして形付けさないことを実現し、社会からの不干渉を成立させた。結果、長谷川小鷹らは社会から心理的に離れた自分達のセカイを成立させることに成功した。

長谷川小鷹らは参照する理想に対して否定することによって、¬(理想的な青春)の共有を可能にした。しかしこの¬(理想的な青春)の共有には1つの大きな問題がある。

理想的なモデルには、理想の自己像を参照させ、またより適正化させようとする内発的な(自律的な)力があるという単純な事実に発する問題だ。

長谷川小鷹らは理想的だと自らが思う青春イベントを行う。自らの体験によって理想的な青春を成立しようとする。だが自らが体験した青春イベントを理想的な青春だと判断する基準が長谷川小鷹らには欠如している。否定が主要な手段であるセカイでは、相対化する手段を持たないからだ。相対化するには複数の理想的な青春候補として留保する必要があるが、¬(理想的な青春)の共有によって成立したセカイではそもそも理想的な青春が1つでも具体的な形を形付けることを拒否する。その結果、自らが思い描く理想的な青春を修正することに失敗する。理想的な青春と実現可能な青春のバランスを欠いた長谷川小鷹らは理想的なモデルを過激化させ、自らを肯定する体験を減らしていく。そして徐々に自らの体験を否定することでしか、理想的なモデルを維持出来なくなる。つまり活動の空虚化であり、究極的には自己の放棄に繋がいく。

自縄自縛しなければ自らを肯定出来ないセカイで生きることは辛い。しかし¬でのみ外部を参照していたセカイでは相対化する力はない。そして空虚化した活動は、最終的には理想的なモデルも空虚化する。

長谷川小鷹らは自らが所属するセカイを否定し、排除された個として生きることになる。排除された個はセカイを否定するだけで、セカイから別のセカイに移動することや、そのセカイを支える社会に興味を移すことを期待することは出来ない。

完結した『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』シリーズ最終巻では上記にて指摘した¬(理想的な青春)の脆弱性が露わになっていることを指摘出来る。

主人公の高坂京介は、過去の経験によって普通の人生を志向する高校生であり、スポーツ万能で雑誌モデルをしている中学生の妹である高坂桐乃がヒロインになる。幼い頃は仲が良かったが、今ではまともに挨拶もされない関係になっていた。しかし「人生相談」と称してオタクであることを高坂京介にカミングアウトすることを通じて、徐々に交流を深めていく。

シリーズの前半部では高坂桐乃との交流が深まる(シスコンになる)につれ、周囲に居た幼馴染田村麻奈実との関係の変化や、高坂桐乃の友人である黒猫との恋愛関係が強調された。しかし後半部になると高坂京介と高坂桐乃は「人生相談」という名の疑似恋愛経験を通じて、徐々に禁断の愛に目覚め、最終的に高坂京介と高坂桐乃が結ばれる。

最終的に兄妹が結ばれるまでに高坂桐乃の友人であり、かつ高坂京介に告白していた新垣あやせ、来栖加奈子、黒猫を振ることになる。客観的に見れば大恋愛の末に結ばれた二人であったが、期間限定恋人という通常の恋愛を否定した状態での成就であった。

クリスマスの日――俺たちは『約束』を交わした。

 

――卒業まで、二人は期間限定の恋人になる。

――卒業したら、二人は普通の恋人に戻る。

 

好き合っている兄妹の、それが現実的な落としどころだった。

(『俺の妹がこんなに可愛いわけがない ⑫,p.366)

このエンディングは賛否両論を招いた。そもそも現実的な落としどころはそもそも兄妹で付き合わないことである。そして高坂桐乃に対して優しくするセカイに生きている新垣あやせ、来栖加奈子、黒猫の告白を保留することでもなかった。シスコンという恋愛においてマイナスになる要素を持ったがゆえに知り合うことが出来た新垣あやせ、来栖加奈子、黒猫が高坂京介によって振られるというのは自明だったはずだからだ。シスコンは理想的な恋愛によっては許容され難い要素であると高坂京介が自認しているからだ。

どんなにその他のヒロインが高坂京介と恋愛イベントを重ねようとも、京介がシスコンであるという恋愛に対する否定的な前提において、桐乃以外は無化される。

また高坂桐乃に対して優しくするセカイでは、セカイに過剰に適応した恋愛によって通常の恋愛関係が侵入することを拒む。

ゴスッ! と、麻奈実の拳が桐乃の腹にめり込んだのだ。

(『俺の妹がこんなに可愛いわけがない ⑫』,p.342)

だからこそ幼馴染であり、幼い頃から高坂京介を慕っていた田村麻奈実は、高坂桐乃という変えられない存在に暴力を振るったのである。

4.以下性という希望

第2章では『イリヤの空、UFOの夏』において、セカイを社会から切り離す夢が描かれていることを指摘した。また第3章では『僕は友達が少ない』から社会の切り離しが学校という場の社会からの隔離という機能を戦術的に使用し、外部の侵入を否定することを指摘した。そしてその戦術的な選択によって通常の青春(恋愛は青春につきものだ)の実施可能性を否認していることが分かった。また『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』から主人公が通常の恋愛の実施可能性を否認した結果、歪な形での恋愛が成就すること読み取れた。ライトノベルにおいて総体としての青春=恋愛を肯定することは難しい。“恋愛の不可能性を前提にした恋愛”はライトノベルという歴史がもつ宿痾であるからだ。そしてまた理想的なモデルを説明する1つ1つの事例に対して実現不可能だと否定することによって虚構的な共同体意識を持つという機能が動作していることが分かった。これらのライトノベルの極端化されたテーマはそれなりに強度と論理を持ち、ライトノベル全体を通底している。

しかし根本的な疑問としてこの虚構的なセカイを全否定する必要があるだろうか。この疑問はクィア理論の先駆者であるレオ・ベルサーニの「社交性とハッテン」という2002年の論文にて指摘された「以下性lessnes」という概念を織り込んだ社交性(欲望可能性)で解決される。

社交性(友達とのちょっとした会話とか、会社でのやりとりなどを思い浮かべてほしい)とは、自分の実存をまるごと賭けることではない。むしろ自分のいくつかの部分のみで、自分を「控えめless」にして、自分の「以下性lessness」を駆使してつきあうことである。個々の実存まるごとをホットに社会全体の目的へ直結させることがファシズム的であるとすれば、自分を「以下」にすること、それぞれの程々の「ひきこもりwithdrawal」にもとづく社交性のクールさはファシズムに対する防波堤であり、かつ、場合によってはファシズムへ熟していくかもしれない関係の初めの温度である。この意味で社交性とは、あらゆる関係の可能性の条件、どうでもよさの条件であり、それが(内面なしの)身体と身体のアドホックな黙約において露わにされるのが「ハッテン場」という社会の影なのだ。

(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.394引用)

主体は主体そのものを他者に提供することによって社交性を勝ち得るのではなく、以下性によって保証されるバリアントでありかつ分離した複数性によって社交性を確保する。

このような多様性に極めて自覚的に作成されたライトノベルが『人類は衰退しました』である。『人類は衰退しました』に登場する新人類である妖精さんは魔法によって容易く人や動物、物質の立ち位置を入れ替える。このような妖精さんが存在する世界を以下のように表現する。

Amazon.co.jp: 人類は衰退しました1 (ガガガ文庫) 電子書籍: 田中ロミオ, 戸部淑: Kindleストア

今の世界は、勘違いのもとで成立している。知らぬままでいれば、我々は心におさまりきれないものを外に放ち続け、様々なものを命の定義に引き上げ続けるだろう。それがこの世界を豊かで、おもしろおかしいものにすると私は信じる。多様性の暴力を私は信じる。おまえはどうだ?

(『人類は衰退しました 9』 p.280)

ライトノベルにおいて現実が否定されるのは仕方がない。そして自分をまるで物のような次元に落とそうとする運動に対抗することも難しい。それは一定の強度と論理を持って存在しているからだ。しかしその一方で自発的に自己の放棄をする選択を、「以下性lessness」という自ら全体として把握不可能な部分になることで、新たな社交性を獲得することによって逃れる手段も提示されたと私は考える。

人類は衰退しました』は非常にライトで誰でも読め、極めて時間に対してコストが良いシリーズである。だからこそ、提案する。田中ロミオ氏が提案した新たなライトノベルの可能性である『人類は衰退しました』を是非、手に取ってほしい。そこにはセカイ系から発したが故にリアリティとは無縁でありながら、豊潤なセカイが存在している。