北出栞氏のVTuber論への批評

「「レイヤーの合成」という論点から考えたとき、VTuberのクリエイティビティの核心は、本人のパーソナリティやビジュアル面もさることながら、配信画面の設計にある。」というのは端的ながら、本質を表していて良い。

https://x.com/sr_ktd/status/1892137127489716527

「レイヤーの合成」によるVTuberの再定義――主体的な生のデザインのために|北出栞 siori kitade

その一方で「「声」という特別なレイヤー」というは中途半端。哲学でいえばフッサールの現前性の議論からも分かるように、そもそも声は自己に対して特権的な地位を持っている。

また『魔法先生ネギま!』が代表であるが、キャラクターに対して、対になる声優がいる、ライブするというお約束もある。「声」はリアルタイムに応答できるという点において有意な立場にあるのは事実であるが、声を特別視するのは北出栞氏の後の提示である「「キャラクター」から「スタイル」へ」の軽視である。

「声」そのもののリアルタイム性が重要視されるのであれば、Kizuna AIの声優の複数性が問題視されることもなければ、「声」そのものが重要視されるのであれば風真いろはの筆談配信に同一性を見出せない。

Vtuberにとって声が現前性の一つの軸になるだろうが、それがすべてではない。

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上記は、行動様式の総体であるスタイルこそが同一性を担保する証左と私は考えている。そしてここが北出栞氏の致命的な欠点である。氏は観念的な事象に対して特権的な地位を与えることで、身体性を論ずることを徹底的に避ける。

自己に事前性があるように、人は考える前に動く。後から反省することはできても、今ここで行為する主体は、観念的な自己ではなく、動物的な衝動と、これまで積み重ねてきた行動様式に強く縛られる。

北出栞氏が提示する「二つのレイヤーの狭間を縫うようにして「私」が移動していると考えられる。」ということはない。行為主体は常に「私」であり、移動しているのではなく行為を行うフィールドが違うだけである。

客体としての、キャラクターとしての自己の側面のみを肯定している限り、主体的な生の再構成はありえない。結論として「主体的な生のデザインに向けて」と掲げているが、これは現状の論旨では、北出栞氏は「祈り」に逃げていると指摘せざるを得ない。

客体を論ずる議論であるならば良いと思うが、主体論としては首をかしげる

北出栞氏の議論は、他者に肯定される客体を構築しようとする主体を、自律的な主体として取り扱うが故に、最終的に祈りだとか声だとかを特権視することに縋らざるを得ないという隘路に迷い込んでいる。

それゆえ氏の議論が批評ではないとは言わないが、依存であり、処世術であるとは言わざるを得ない。

もしくは他者に規定される自己という認識を持った他者に依存する主体がどのようにサバイブしてきたかというルポかつ処世術が、その生々しさと持論が一部批評性を持ちえたと言うべきか。

セカイを密室にする方法

1.はじめに

経筒という文化を知っているだろうか。

引用すると以下の通りになる。

平安時代末期、仏の教えがすたれ世のなかが乱れてくるという末法思想(まっぽうしそう)が流行した。わが国では永承7年(1052)に末法の世にはいると信じられていた。僧侶や貴族たちは再び仏がよみがえる来世、つまり56億7千万年後の弥勒菩薩(みろくぼさつ)の再生に期待し、そのときに備えて経典を書写して経筒におさめ、経塚に埋めることにした。

No.291 埋もれた仏たち | アーカイブズ | 福岡市博物館 (city.fukuoka.jp)

末法思想が流行った結果、未来は暗澹たるものと想定された。しかし仏教において、56億7千万年後という途方もない未来において、弥勒菩薩が出現し、仏の教えが現世に満ち、現世の平穏を齎すことが約束されている。
平安時代当時において、その現世の一助となるように経典を書写して、経筒におさめ、経塚に埋め、その遠い未来に託したのだ。
私はこの行為に対して複数の意味で、"セカイ系"を感じる。
本当にあるかどうかは分からない未来に対して、可能性を信じて行動すること。仏教という教えに普遍を託して、封をすること。そして何よりその封を開けた我々がその文字列を経典であることを理解できていること。
身近な行為に譬えるとこれは”ラブレター”である。過去から未来への人類に対する"ラブレター"である。それを"セカイ系"と感じる私の感性はおかしいだろうか。おかしいのであろう。
なぜならばゼロ年代における<セカイ系>と私の感性は近いようで、遠い。
ゼロ年代における<セカイ系>の定義はおおよそ以下である。

一般には、主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結させる想像力を意味するものと理解されています。必ずしも文学作品においてのみ現れたものではなく、初期の代表作として、(中略)秋山瑞人ライトノベルイリヤの空、UFOの夏』といった作品がよく挙げられます。

東浩紀、セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題(p.15- p.16)

この隔たりを埋める方法として、北出栞が出版した『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』を経由する。

※以降『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』と呼称

「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 | 北出 栞 | 社会・政治 | Kindleストア | Amazon
経由する上でまずは問題提起からはじめる。
『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』では結論として、以下の<セカイ系>の活用を提案する。

彼らの足を前に進めるのは、大切な誰かの無事を願う「祈り」だ。圧倒的で口を噤むより他ないものに直面したとき、「無駄かもしれない、だけど、それでも」と、限りなくゼロに近い可能性、奇跡に身を投じるためのエネルギーに変えるものとして「祈り」がある。
これまで本書では、匿名性から顕名性へ向かうインターネットの、つながりすぎ、一貫性が求められすぎることの息苦しさに対する、「どこでもなさ」や「誰でもなさ」、あるいは「沈黙」することの意義を〈セカイ系〉と呼ばれる作品を通して肯定しようとしてきた。「祈り」とは、まさに「どこでもない」場所で、「誰でもない」存在として行われるものだ。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.222)

愛は祈りだ。僕は祈る。

舞城 王太郎. 好き好き大好き超愛してる。(p.009)

Amazon.co.jp: 好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫) 電子書籍: 舞城王太郎: Kindleストア

北出栞の提案は、既に2006年8月に舞城 王太郎著『好き好き大好き超愛してる。』で展開されている。北出栞の提案は20年弱遅れている。北出栞の結論を読むだけであるならば、『好き好き大好き超愛してる。』を読めばよい。『好き好き大好き超愛してる。』以外にも<セカイ系>と呼称される作品群において、「祈り」は頻出する行為である。

北出栞は<セカイ系>に頻出する行為自体に望みをかけてしまっている。<セカイ系>を愛することと、<セカイ系>に包含されることは異なる。

そもそも批評とは、認識の枠組みを問い直す営為ではなかったのか。

北出栞の過剰な<セカイ系>へのコミットは、結果としてゼロ年代批評の恥部を露呈させる。

『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』は「ゼロ年代批評の恥部を<セカイ系>という概念で表出させた本」である。北出栞は感性に従い、ゼロ年代批評の恥部を適切に表出させる。そしてそこにゼロ年代批評の結節点が併せて露出している。

そのため、『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』の批評を適宜行うことによって、ゼロ年代批評の恥部を露わにし、隠蔽されてきた文脈を掘り起こすことを可能とする。

本批評において、(1)<セカイ系>という概念は、ゼロ年代批評の恥部であること、(2)<セカイ系>に基づく感性は、その恥部を露呈させたこと、(3)"セカイ系"に隠された文脈を露わにすることで、ゼロ年代批評の結節点を明らかにし、"セカイ系"をポジティヴな営為を含む概念に生まれ変わらせることを目的とする。

※以下に『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』の章構成を案内のために、事前に記載する。

  • はじめに
  • 1章 セカイは今、どこにあるのか
  • 2章 デジタルな実存の再構成
  • 3章 ミュージックビデオ的想像力
  • 4章 タッチパネル上で生まれる「切なさ」
  • 5章 「ポスト・ボカロ」とは何か
  • 6章 浮遊する「天使」のサンプリング
  • 7章 タイムラインの中で「かたち」を捉える
  • 8章 セカイに向けて響く祈りの歌
  • おわりに

2.データベース消費

セカイ系〉に今目を向けることの意味は、デジタルテクノロジーが本来的に備えていたはずの、「距離」と「世界」に関する逆接を再発見させてくれるところにある。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.16).

セカイ系〉は、コンピュータと向き合う「半透明」な感覚の中から、その同義語でもある「切なさ」を作品という形に具現化してきた。ソーシャルメディアに拡散する前の自己にとどまり、孤独な時空間の中で「世界の終わり」を待ち構えること。

自ら「世界線」を移動することなどできない無力感の中で、「切なさ」を嚙み締めること。こうしたイメージの輪郭を、〈セカイ系〉作品の制作プロセスを解体することで摑むことができるはずだ。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.34).

上記で言及されている「距離」と「世界」に関する議論、メディアの透明性についてはポール・ヴィリリオが『情報エネルギー化社会』や『瞬間の君臨』にて、「半透明」な感覚については鷲田 清一が『じぶん・この不思議な存在』にて”透明ラップ化”という概念にて言及している。

情報エネルギー化社会: 現実空間の解体と速度が作り出す空間 | ポール ヴィリリオ, Virilio,Paul, 進, 土屋 |本 | 通販 | Amazon

瞬間の君臨: 世界のスクリーン化と遠近法時空の解体 | ポール ヴィリリオ, Virilio,Paul, 進, 土屋 |本 | 通販 | Amazon

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北出栞がデジタルテクノロジーの特徴であるとか、<セカイ系>の特徴と述べているのは、既存のテクノロジーやメディアの特徴の範疇であることをまず指摘しなければならない。

ポール・ヴィリリオは「距離」ではなく、「時間」と「空間」と「世界」に関する議論を行っている。ポール・ヴィリリオマクルーハンガボリオを経由して、以下のように述べる。

 一九六〇年代初頭、カナダの文学者であり文明批評家であったハバート・マーシャル・マクルーハンは、テレビ画面と書物を対比させ、書物が持つ「時間とともに明らかになる世界理解の方法」が消し去っていた直接性や共時的な反響を、ラジオに続いてテレビが回復させることになったと主張していた。

 探偵小説の始祖であるガボリオ(一八三五-七八)に言わせれば、時間とは物質的な手がかりを一つ一つ消し去り、私たちを事物の現実から遠ざけるさらなる闇だという。

※本文傍点をアンダーラインで表現している。

ポール・ヴィリリオ,情報エネルギー化社会(p.22)

これはポール・ヴィリリオを引用しなくとも、ニンテンドーウォーという概念を知っていれば理解可能であろう。

またポール・ヴィリリオは以下のような警句を残したことも指摘しなければならない。

加速によって、もはや「ここ」も「あそこ」もなくなる。近いものと遠いもの、現在と未来、現実と非現実といった区別はなくなり、それらを合成したものだけが心理的実在として存在するようになる。

コミュニケーション技術が作り出す歴史と物語と幻覚ユートピアの混合物だけが存在するようになる。このように情報は、批評を許さない進歩という金ぴかのイデオロギーを身にまといながら、現実という様態をどんどん奪い去っていく

ポール・ヴィリリオ,情報エネルギー化社会(p.56)

ポール・ヴィリリオの議論において、北出栞がデジタルテクノロジーの特徴と見做したもの(「距離」と「世界」に関する逆接)は、メディアの特徴であると指摘されている。

鷲田 清一が指摘する透明ラップ化とは、過敏になったじぶんを包む様子(みなが画像の中の存在、都市のショーウィンドウ越しにいるような存在、透明なラップに包まれているよう)を指す。鷲田 清一は透明ラップ化について両面から分析する。そもそも”じぶん”とはそこまでプライベートな存在であったかということ、そしてそのプライベートを持つことの困難さについて。

鷲田 清一の透明ラップ化は、北出 栞の「半透明」とオーバーラップする。

以上のことから、「半透明」も「切なさ」も異なる文脈で議論されている概念と言える。

そのうえで「半透明」、「切なさ」というイメージに北出 栞が<セカイ系>を見出すかを考える必要がある。そのヒントになる概念がデータベース消費である。

東浩紀は『動物化するポストモダン』で、そのように簡単にデータに還元できてしまう対象にもかかわらず、ユーザーがキャラクターに感情移入できてしまうのは、キャラクターを構成する無数の「萌え要素」と、その背後にある「データベース」を無意識に参照しているからだと述べていた。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.93).

「半透明」というのはイメージである。「切なさ」とは感情である。

イメージと感情は直結されない、正しく言えば個人の中では直結するかもしれないが、その直結された感覚を他人に説明することは困難である。
そしてイメージと感情は異なる性質を持つものであり、同義ではない。
だがこの直結を助けるのがデータベース消費である。

北出 栞は「半透明」というイメージと「切なさ」という感情をデジタルテクノロジーを介して、直結させている。
データベースは、物事から要素を抽出し、捨象する。その結果、特徴、性質はあたかも独立した存在のように、そして物事に並列に付加されているように思える。
例えば<セカイ系>というジャンルにはメタ要素として、”青い”、"青春"、”透明感”、”君と僕”、”切ない”等がある。これらの要素は等しく”セカイ系”と関連があるが、それぞれの要素は必ずしも意味的には関連はない。
そこには出現頻度による統計的な関連性はあるかもしれないが、意味的な因果はない。しかしデジタルテクノロジー=データベースを隠蔽すると、あたかも直結しているように勘違いする。
北出 栞は無意識にゼロ年代の批評というデータベースに対して、<セカイ系>と検索し、「半透明」や「切なさ」というメタ要素を引き出す=データベース消費をしていると指摘することができる。

3.キュレーション

奈須:(中略)ビジュアルノベル低迷の理由のひとつは、演出面での頭打ちです。ひとつのフォーマットを十年以上もつづけてたらそりゃみんな飽きますよ。

これは批評をやっている人には耳の痛い話でしょうが、ビジュアルノベルを語るときにシナリオだけで判断しないでほしい。システム、演出、CG、音楽から、果ては売り方やパッケージングまで含めてひとるのゲームなの、全体を見るべきなんです。(中略)製作者の為ではなく、これから製作者を志す次代の人たちのために。

奈須きのこ×武内崇×坂上秋成×村上祐一,ビジュアルノベルの星霜圏(p.25)

2011年に刊行された『ビジュアルノベルの星霜圏』上において、(ゼロ年代)批評に対して奈須きのこから苦言が呈されているが、同人誌の批評においては先行して作品全体を見て批評を行っている

特に2000年代後半から2010年代前半において「反アニメ批評」が刊行していた『アニメルカ』ではCG(背景)、音楽について盛んに言及していたことは忘れてはならない。

結果的にゼロ年代批評の尻拭いを試みた批評家は多数存在したが、盛り上がりに欠けた。その原因に、批評を批評対象へフィードバックする回路を持てないことを反省として述べている批評家もいた。

『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』においても、同様に音楽やソフトウェアを含む制作工程へ言及が積極的に行われている。北出 栞はテクノロジーを介した作品批評を積み重ね、以下を主張する。

そもそも<セカイ系>という言葉が作家個人の態度を批判する意味合いで使われてしまうのも、映画や小説といった、作品とはすべからく「作家の意図」を反映するものとされていた時代以来の表現をベースとした評価基準が未だに支配的で、デジタルテクノロジーによってもたらされた、それ以前とは根本的に異なる「作品」や「作家」のあり方への理解が進んでいないからであるように思える。主人公の観念的なモノローグが「世界」という大文字の対象に直結する作品を揶揄する言葉として生まれた<セカイ系>に「作家の意図」という概念を排して向き合うことは、「作品未満」とされてきたものに目を向けることで、現代における「作家」や「作品」の位置を根本的に見直すことにも通じているのである。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.89).

1990年代から2000年代にかけて、謎本のようにフィクションの世界を、現実的に考察する本の流行やそもそも本筋と関係ないガジェットやカットが氾濫するエヴァンゲリオンが社会ブームになったことを考慮すれば、北出 栞の主張する「すべからく「作家の意図」を反映するものとされていた時代」というのは、<セカイ系>という概念が登場した時代より前である。

ゼロ年代批評において、<セカイ系>は社会反映的な概念であり、むしろ「作者の意図」は軽視されている。

僕の問題意識においては、セカイ系とは、文学の問題というより、むしろ社会の問題だったのです

東浩紀,(『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』,p.17)

「作家の意図」という概念を排して向き合うというのは、ゼロ年代批評の文学論において最も盛んに行われたことであり、<セカイ系>という概念は、ゼロ年代批評において、作品論でもなく作家論でもなく、文学理論を利用した文学を通じた社会反映論における重要な概念であったことは念頭に置かなければならない。

また北出 栞の議論は個別の技術論である。それを尊重するのであれば、フィードバック先は奈須きのこが述べたように、「これから製作者を志す次代の人たちのために。」にあるべきではなかったのだろうか。

北出 栞は自らの批評行為のインタラクティブをどのように考慮しているのか、自らの<セカイ系>という概念を反映する場をどこに定めているかが、不明瞭である。

※これは北出栞に限った話でない。個別のマテリアル(カット)、作品を論じても、外部に届く回路(もしくは批評者内部にある別領域に反映する回路)がなければ、批評家界隈での戯れに過ぎない。

このような態度に相似なのが、俗的な「否定神学」である。「否定神学」は、「いかなる仕方で神に様々な属性を述語づけることが可能か」を問う側面がある。これは平たくいえば、語りえない対象をどのように語るかという問題である。俗世において、この問題は、世界にあった神の座に神が在ることを否定し、その座を巡る権力争いを招くことになった。その座を巡る権力争いは現代にも脈々と続き、批評においても言説レベルでの真理を巡る権力争いは続いている。

北出栞は主体を語らない。しかしそれは、「否定神学」のような、否定した対象の周囲を語ることで、物語る主体としての座を巡る権力争いを目指しているからではなく、「そもそも<セカイ系>という言葉が作家個人の態度を批判する意味合いで使われてしまう」から分かるようにそもそもオタクの主体を巻き込まないための配慮と捉えるべきである。

補助線を引く。アニメ批評において、新海誠庵野秀明等のアニメ監督に「作家の意図」を見出す行為に対して、アニメは演出監督、シナリオライター、音響監督等の様々な思いを捨象してしまうという批評は一定数存在する。これらの批評はアニメ監督というのは、アニメ制作総体の擬制という側面を指摘する。

その一方でアニメ監督という擬制を前提にすることで、アニメを意図が込められた総体として評価することを可能にするのである。

個別の技術論からコンセプトを引き出すことは困難であり、提示されたコンセプトに対して、個別の技術がどのように貢献しているかは見出すことはできる。

再度補助線を引く。現代美術において、重要性を増す職業がある。それがキュレーターである。

現代美術に携わる現役アーティストと社会との接点が主として展覧会であり、現代美術と社会の橋渡しをする存在としてキュレーターが重要な位置を占めるからでもある[10]。展覧会におけるキュレーターの仕事は、テーマを考え、参加アーティストやアート作品を選択し、しかるべき展示会場に好ましい効果を発揮するようにアート作品を設置し、カタログに文章を執筆することなどである

キュレーター - Wikipedia

現代美術は作品に対して社会的な文脈を重要視する。そのため作品(あるいは意図的に作品以下である作品)を雑然として配置した場合、作品同士が衝突を起こし、展覧会のコンセプトと反する結果を招くことがある。

文脈を理解した上で、展覧会という空間に配置する必要がある。

このキュレーターというあり方はアニメにも、ゲームにも、そして批評にも通ずる。

特定の作品群から概念を還元する際、作品にある文脈を尊重し、適切に配置されるか配慮する必要がある。

北出 栞の「「作品未満」とされてきたものに目を向けること」は固有の時間軸からの解放という例で使用していたが、それは「モノ」が持つそれぞれの文脈に注視することも含意することを理解しなければならない。

<セカイ系>という概念がゼロ年代批評において与えられた定義は「主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結させる想像力」であった。

この概念は本当に<セカイ系>とされる作品群から還元されたのだろうか。

むしろ社会から大きな物語や中間項が失われていく状況を、<セカイ系>という概念を通じて、オタクに仮託した、素朴な社会反映と指摘すべきである。

そして裏返しでこうとも言える。オタクという社会から疎外されてきた人間を、"セカイ系"という概念を通じて、社会に結びつけたととも。

その上で2点、整理すべき論点がある。(1)なぜ小さな人間関係が、「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結されるのか、(2)なぜ社会全体の特徴にも関わらず、アイコンとして<セカイ系>≒オタク的な想像力が選ばれ、言説として膾炙されたかである。(1)は"セカイ系という想像力の源泉を再度問い直す問いであり、(2)オタクの持つ文脈を社会のどこに接いだかという問いである。

※『イリヤの空、UFOの夏』が代表的な<セカイ系>作品と批評されたことからも読み取れる。本作を代表としながら、「社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく」という批評がなされたことが示唆的である。

4.主体

セカイ系的主体」を改めて定義すると、「エディタ」が「ライブラリ」に登録されたバラバラな音声データをひとつの「歌」という単位に統合する際に、ソフトウェアとともに「作る」人の中に立ち上がってくるイメージのことだと言えるだろう。(中略)「作る」ことのアシストをしてくれる相棒のような存在が「セカイ系的主体」なのだ。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.127-p.128)

セカイ系的主体」という概念を論ずることは有意義ではない。北出 栞の配慮の結果でしかない。むしろ出力されたイメージに過ぎないものを主体と称する北出 栞の感覚の源泉を探っていく。

その作品、『ヘブンバーンズレッド』(以下、『ヘブバン』)はずばり「最上の、切なさを。」というキャッチコピーを掲げ、Keyと、スマートフォンゲームの開発・運用ノウハウを持つWFS社のゲームブランド・ライトフライヤースタジオとの協業体制のもと2022年にリリースされた。

PCのデスクトップ画面にGUIを介して触れる中で立ち上がる「半透明な感覚」。それを作品として具現がしたもの、というのが本書における<セカイ系>の定義だった。スマートフォンゲームにおいて「最上の切なさ」を実現しようとする『ヘブバン』の挑戦に目を向けることは、そのまま<セカイ系>の現在地を探ることにつながるだろう。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.105)

HEAVEN BURNS RED ヘブン バーンズ レッド CM 「最上の、切なさを。」篇 15秒 (youtube.com)

『ヘブバン』は北出 栞が指摘するように「最上の、切なさを。」というキャッチコピーにて、広告がなされた。ゲームプレイの目的に「切なさ」を置くというのは確かに異例だ。

有名なゲームCMのキャッチフレーズといえば、『FINAL FANTASY X』のCMの「世界一ピュアなキス」、『MOTHER2』の「大人も子供も、おねーさんも」等が上げられる。ゲームが与える感情に主眼を置いたキャッチフレーズは希少である。

ゲームのキャッチコピー集めてみた!【272選】|ジャンル別に全部紹介!|PS5 PS4 NintendoSwitchからPS2まで! | ゲーム博物館 (comshop.ne.jp)

「切なさ」について腑分けを行っていく。

『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』において、以下のように「切なさ」の再定義を行っている。

ソーシャルメディアの中で「シェアするための切なさ」が「エモさ」であると仮定するならば、積極的につながりを切断し、孤独の中で味わう感覚として「切なさ」を再定義することもできるはずだ。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.116)

ここで『動物化するポストモダン』で展開された「動物化」という概念を思い出していただきたい。

人間の欲望は間主体性を前提とするが、その一方で動物の欲望は間主体性を前提としない。またオタクを念頭にしたデータベース的動物では、コミュニケーションは真似事でしかないのでいつでも「降りる」ことが可能とされていた。

しかし北出 栞の定義する「切なさ」は、「つながり」を前提しており、「つながり」を切断することで達成する感覚と捉えられている。

<セカイ系>との出会いとは、アルゴリズムとネットワーキングによる無限の接続から強制的に身を切り離す経験と限りなくイコールなのである。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.190-191).

そして上記から「つながり」は自由に「降りる」ことが困難なモノとして捉えられていることが分かる。

「切なさ」は人間の欲望を基にする感情であるとすると、間主体性を前提とする。そして人間の欲望は、他者の欲望を欲望するという構造上、終わることなく際限なく膨張するとされている。

北出栞の「切なさ」とは、際限なく膨張する他者の欲望に吞み込まれる状況から逃れるために、「つながり」を積極的に切断する感性である。

ここにゼロ年代批評の<セカイ系>と北出栞の<セカイ系>の感性の、差異を捉えることができる。

北出栞が「「作品未満」とされてきたものに目を向けること」を<セカイ系>の復権に期待を寄せていたが、それは同時にモノに様々な文脈を攪乱、付与、強制接続する行為であり、むしろ処理しきれない接続を招き入れる。

しかしTikTokは「撮影する」工程と「加工する」工程が一体となっており、加工された映像・画像が「自分(の像)」としてメディア欄に並ぶ「アカウント」と、スマートフォンから視線を外して見た「現実の鏡に映る自分」とがコンフリクトを起こしてしまう。イメージとしての自分の身体は拠り所を失い、浮遊するのである。

浮遊するセルフイメージ、それを受け止めるモチーフとして見出されるのが天使である。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.160)

北出栞における主体とは溢れる他者の欲望=イメージから逃れることが困難な存在と言い換えることができる。

そしてそのような主体は、他者の欲望から逃れるために、デジタルテクノロジーを介して超越的な概念と直結する欲望を見出しているとも捉えれる。

セルフイメージを天使に仮託することは、主体が天使としての行動規範を振る舞うことを強制する。そして超越的な存在である天使になりきるというのは、自己の中に自身が管理できないアイデンティティを挿入するということでもある。

それは浮遊するセルフイメージとは裏腹に、不自由な主体になることを強制することではないだろうか。なぜこのような強制を受け入れるのか。

これは主体と自己を直結させているからである。

Dobjectは主体と自己を身体で切り分けている。主体は異なる主体との行為応答性を持つものと定義し、自己は身体において自らの内部を統治するものと定義している。主体と自己の関係は、自己は自らの内部にて、主体の行為応答を統べようとする存在である。主体は自己より先んじて動くため、主体は自己の統治から逃れられる。そのため自己と主体は常に緊張状態にある。

※本定義の適用は、本論考において時々いい加減になることはあるが、基本方針としては一貫しているはず。

それに対して、主体=自己と定義した場合、身体は暗黙の了解で前提に置かれる。インターネット空間(メディア空間)における主体とは、身体がないということを共有している主体、あるいは(バーチャルな)身体が重複する主体、そのどちらかを選択することとなる。

この場合、身体がないということを共有している主体とは否定神学的な、精神分析的な、そして超越的な自己を求める不自由な主体である。

身体が重複する主体というのは、ようするに代替可能な自己を受け入れるということである。アバターという存在は、結局は互換可能な存在であること=平凡であることを受け入れることである。

天使に主体を仮託することは、その平凡さから逃れるために、超越性に縋り付くようにしか思えない。

ちなみに正しい解釈は3値論理に基づいて、「NULL」を受け入れることであるが、人間の直感は2値論理に基づいているので、困難である。

3値論理 (mickindex.sakura.ne.jp)

アニメ『無職転生Ⅱ ~異世界行ったら本気だす~ 』の「第15話遥か」のEDは非常に示唆的である。主人公のルーデウス(前世)(CV.杉田智和)のモノローグ「たまにはすべてを忘れないと、とうてい生きてはいけないのだ。人生はつらいことばかりだからな」から特別なEDに入る。ここでナナホシ(CV.若山詩音)がカバーする『ツバサ』が流れ始める。

『ツバサ』(full MV)/ アンダーグラフ (youtube.com)

『ツバサ』のMVは女優のモノローグから始まる。このモノローグは最初に「あなたは翼を手にしましたか。」と呟き、間の後に「人は翼をもつと、自由になれるんですか」で終わる。

過剰なつながりから逃れるための戦術である浮遊するセルフイメージ=天使は、むしろ不自由=他者の欲望の導入装置に他ならず、それは『ツバサ』のモノローグで予言された結末に陥るのである。

超越的な存在に自らを仮託することでは、他者の欲望を欲望することをコントロールすることはできない。

ただそれは過剰な接続によって統一的な主体が形成できないがために、超越的な存在のイメージを自らに投射することで、コントロール不能な領域をつくる。コントロール不能な領域を軸に統一的な主体の形成を試みているのではないだろうか。ここに"セカイ系"において、超越的な存在に自身を投射したいという欲望を惹起する回路がある可能性を見出せる。

ここで今後の論旨展開の補助線としてフーコーの思想を紹介したい。

彼の言葉には、権力によって課されるセクシュアリティの拒絶とともに、真理としての欲望をあらかじめ想定することの拒絶およびそれを自らの真理として無反省的に受け入れることの拒絶が、明らかに含意されているのだ。そしてそこに何らかのポジティヴな意味があるとするなら、それは、「同性愛」を、行動を決定するもののレヴェルにおいてではなく、徹底して行動そのもののレヴェルにおいて価値づけ直すことであろう。セクシュアリティの問題を、すでに自らに与えられている欲望の問題としてではなく、これから創造すべき生の問題として、これから発明すべき諸々の快楽の問題としてとらえ直すこと。こうした創造と発明のためにこそ、懸命な努力が求められているのである。

慎改康之,セクシュアリティと欲望の真理 フーコーと性解放運動(p.8)

sexualite.pdf (meijigakuin.ac.jp)

<セカイ系>を巡る議論には、オタクのセクシュアリティを巡る言説が散りばめられていた。<セカイ系>もまたゼロ年代批評から離脱するには、欲望を巡る言説のレベルで如何に切断できるかが問われていく。

フーコーの述べる権力とは公権力を指さず、「それらが行使される領域に内在的で、
かつそれらの組織化の構成要素であるような、そうした無数の力関係」と理解される。

5.欲望

(1)非-精神分析主義:まず、動物化とは、欲望の間主観的な因果性からの分離である。

(2)認知的習慣化:そして動物化とは、特定の対象の認知を反復する/させることにより、対象への中毒的なこだわり(アディクション)に陥ることである。

(3)異性愛-生殖規範性:(少なくとも男性オタクにおいて)結局のところ、動物化とは、人間の自然=本性としての異性間での生殖と不可分の異性愛規範性、すなわち「異性愛-生殖規範性」のしぶとい存続の再認に他ならないのである。

※改行はDobject追記
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.391)

千葉雅也が指摘した重要な論点として、東浩紀の”動物化”の概念について、上記の三つの論点を敢えて癒着されたというものがある。

その2つの論点に言及された記述は、以下の2つである。

オタクたちの社交性は、宮台も指摘したとおり、そのような社会に適応して生み出されている。現実の必然性はもはや他者との社交性を要求しないため、この新たな社交性は、現実に基盤をもたず、ただ個人の自発性にのみ基づいている。したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹謗中傷のような人間的なコミュニケーションが展開されたとしても、それらは本質的にはまねごとであり、いつでも「降りる」ことが可能なものでしかないのだ。ゴジェーブならばこの事態を、オタクたちは社交性の実質を放棄したが、その形式だけを維持していると述べるかもしれない。

東浩紀,動物化するポストモダン オタクから見た日本社会(p137-138)

そしてそのようなオタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティッシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる。あるキャラクター・デザインやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変わってしまったかのように同じ絵や声が頭の中で回り続け、あたかも取り憑かれたようだ、というのは、少なからぬオタクたちが実感を込めて語る話である。それは趣味よりも薬物依存に似ている。

東浩紀,動物化するポストモダン オタクから見た日本社会(p129)

(1)「非-精神分析主義」、(2)「認知的習慣化」の論点に基づくだけであれば、そもそもオタクとは「性的に未熟な存在」である。自身の性欲がない、もしくは性欲をぶつける相手が定まらない存在である。

そろそろ結論に入ることとしよう。データベース型セカイの二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とでデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では疑似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。

東浩紀,動物化するポストモダン オタクから見た日本社会(p140)

(3)異性愛-生殖規範性とは「疑似的で形骸化した人間性を維持」する欲望である。そして社会を再生産するための基礎となる欲望である。ここで疑問がある。そもそもオタクは「性的に未熟な存在」な存在であるにも関わらず、「異性愛-生殖規範性」を付与されたのか。

これは3章の整理すべき論点、「(2)なぜ社会全体の特徴にも関わらず、アイコンとして<セカイ系>≒オタク的な想像力が選ばれ、言説として膾炙されたか」の回答となる。

個人を種別化し、個人に対して介入する権力の戦略のなかで、個人の内部に、本性としてのセクシュアリティが、知るべきもの、その真理を手に入れるべきものとして組み込まれるようになるということだ。これによって、規範から逸脱した性行為に身を委ねる者たちが、「倒錯性」という自らに固有の真理を持つ一つの「種族」として構成され、そうした者に対する治療、差別、排除といった措置に根拠が与えられるようにもなるのである。

慎改康之,セクシュアリティと欲望の真理 フーコーと性解放運動(p.5)

sexualite.pdf (meijigakuin.ac.jp)

フーコーが指摘した通りである。異性愛-生殖規範性」を維持させるためである。

そこで活用されたのが、精神分析である。「性的に未熟な存在」であるオタクに対して、(1)、(2)のようにイメージの世界での欲望に対して、超越的な存在(アニマ・アニムス)を挿入することで異性愛-生殖規範性を付与し、現実社会の肉体に対して社会の再生産の文脈(イメージの世界に閉じこもるには、社会が存在しなければならない)において、異性愛-生殖規範性を付与した。

ゼロ年代批評はオタクを「動物化」という概念を通じて、オタクの身体とオタクのイメージの世界を分離させ、その分離した双方に異性愛-生殖規範性という重しをつけた。言い換えるとオタクはその分離=引裂をゼロ年代批評によって、決定づけられたのである。そしてその道具になったのは、<セカイ系>という概念である。

※後述するが、オタクは<セカイ系>の後、社会から離れるような作品群を公式、非公式、同人オリジナルで加速度的に生産するようになる。社会からの離脱を求めたともいえる。

(略)個人を、自己のアイデンティティに隷属する主体 sujet であると同時に他者に隷属する臣下 sujet でもあるようなものとして構成するメカニズムのことだ。個人を一つの真理、一つの「魂」につなぎとめつつ、それによって個人の身体およびその行動を攻囲することを目指す権力。要するに、『知への意志』は、セクシュアリティを、このような「隷属化」の権力の効果であると同時に道具であるものとして描き出そうとしているのである。

慎改康之,セクシュアリティと欲望の真理 フーコーと性解放運動(p.7)

sexualite.pdf (meijigakuin.ac.jp)

フーコーが指摘する通りである。オタクとは「セクシュアリティを、このような「隷属化」の権力の効果であると同時に道具であるもの」である。だからこそオタクに対して異性愛-生殖規範性を問う時、「異性愛-生殖規範性に原罪がある。(「性的に未熟な存在」であるオタクがいるがために、)異性愛-生殖規範性が再生産されてしまう。「性的に未熟な存在」であるのを辞めよ。そして原罪を受け入れよ」というマイノリティの文脈で問題視される行為が頻出されるのである。

そしてこれこそがゼロ年代批評の恥部である。

そしてこの恥部にこそ、ゼロ年代批評の結節点がある。そこに"セカイ系"の再定義の文脈が眠っている。

TVアニメ『お兄ちゃんはおしまい!』“おにまい”EDムービー(ノンクレジット)/EDテーマ「ひめごと*クライシスターズ」ONIMAI SISTERS(高野麻里佳・石原夏織・金元寿子・津田美波) (youtube.com)

6.不可能性

残された整理すべき論点として、「(1)なぜ小さな人間関係が、「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結されるのか」がある。この論点を腑分けする。

既存の<セカイ系>の定義では、「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題が解決すれば、小さな人間関係が成就に繋がると理解されることもあるが、これは誤読である。『エヴァンゲリオン』、『イリヤの空、UFOの夏』、『最終兵器彼女』を読めば、問題が解決しても、小さな人間関係が成立しないことは自明である。

正しくは、小さな人間関係が大きな問題の解決に結びつくのではなく、小さな人間関係の不可能性が大きな問題と直結するのである。

現在の社会では小さな人間関係を構築することが不可能な主体が、関係を構築することが可能なセカイを求める。現在の社会を否定をする手段として「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題を選択したと言える。そのため、大きな問題と小さな人間関係は直結していない(ただし可能性のセカイにおいて小さな人間関係が成立した場合、その継続には大きな問題を解決する必要がある)。

この解釈において重要なのは、精神分析における超越的な存在(アニマ・アニムス)をNULLできることである。精神分析における超越的な存在(アニマ・アニムス)は、そもそも現在の社会を前提としている。その前提を壊す想像力というのは、超越的な存在(アニマ・アニムス)をNULLする想像力でもある。すなわち"セカイ系"における"君"と"僕"とは、男と女、父と子、母と子といった関係性からの逸脱である。

"セカイ系"を再定義すると、以下になる。

「現実世界では関係できない(不可能)な君と僕を、阻害する中間項を省くことで可能なセカイを開く想像力である。そして中間項を省いた結果、不安定になったセカイに対してどのように立ち向かうかを問く想像力でもある。」

※『新世紀エヴァンゲリオン』における綾波レイ、 『機動戦艦ナデシコ』におけるホシノ・ルリ、『イリヤの空、UFOの夏』におけるイリヤ、各物語において当初、超越的な存在として描かれる彼女たちであるが、日常生活によって、交流可能な存在になることが描かれている。これを現実への回帰と捉えるのが誤りであり、日常=反復のなかで新たな関係が築かれたと捉えるべきである。

x.間奏

[Interlude]

真面目なことばかり書いていると頭が沸騰してくるので、脇にそれる。

本章は本稿の論旨展開上、クリティカルな部分ではないものの、言及した方がより"セカイ系"がHaving Funになる内容について記述する。

全体的に各論でしかないので、他の章に還元するのは辞めていただきたい。

一つはHip Hopを巡る言説であり、一つはオタクの身体性についてである。

Hip Hopを巡る言説において有名な2つの言説は「keep it real」と「Hip Hopは"文化の総称"である」といったものである。

「keep it real」はある意味で呪われた文脈である。簡単に説明すると、ラップで歌う内容は現実と地続き(リアル)であれというものである。ショービジネス化したラップに対しての批判的な文脈であったが、それはラップ全体を侵食する。当時のラップシーンではギャングスタ・ラップが最盛であり、その内容は暴力性に満ちていた。その内容=イメージを「keep it real」と見做した結果、ギャング同士の抗争に巻き込まれ(そもそも内側にいたので巻き込まれたというのは一義的な見方なのかもしれないが)、2PAC等の有名ラッパーが命を落とすことになった。

そもそも「keep it real」におけるリアルとは、パーティーという場で発生する。そしてHip Hopはそもそもラップだけではなく、そのパーティーからの発展、歴史すべてを包含する。そしてその場で発生する瞬間性を尊ぶ。

Hip Hopの4大要素として、「MCing (ラップ)」、「DJing (DJ)」、「Writing (グラフィティ・アート)」、「Breaking (ブレイク・ダンス)」が挙げられている。

「ヒップホップとは何か?」業界人なら知っておくべき歴史とルーツ | KICROSS

この4大要素は、展開される場であるパーティーを前提にしていること、その中で暴力を排する努力が実践的に繋がっていることが素晴らしい。

領土の争いは暴力ではなく、グラフィティの上手さで競え、個人間の諍いはラップとブレイクダンスの上手さで競え、一方が言い募ることのないように同じリズムに乗れ(DJ)と遊戯を通すことで暴力を諫める努力が見て取れる。

Hip Hopの歴史を俯瞰すると、文化が展開されるには場が必要であること、適したルールと遊戯が必要であること、そして身体性のレベルが問われていることが分かる。

オタクは物理的にはコミケ、インターネットにおいてはニコニコ動画という場が定められた時代が一時的にあったが、今はその双方、勢いがない。

オタク的な想像力は、統一的な場のイメージを持てないことが今後の宿命なのかもしれない。

話を変える。オタクの身体性というと、漫画やアニメで描かれる「暴力」を思い浮かべたくなるが、それ以外にもアーケードゲーム、車、ダンス等様々な身体性が描かれている。

アーケードゲームの身体性と言えば、格闘ゲームと個人的に思っている(別に、ビートマニアでもクレーンゲームもよいが)。波動拳のコマンドを打つというのは最初は「↓↘→P」である。これを反復練習していくと、自然とコマンドを入力できるようになる。コマンドのほかに戦術を覚えたり、この繰り返しの果てに、あたかも自由にキャラクターを動かしているという実感に繋がる。

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車もそうだ。電気自動車を筆頭にタッチパネルが徐々に浸透してきているが、車の操作はハンドル、音量ボリュームつまみ、タコメータークラッチ、ブレーキ、すべてが手足の延長戦上、アナログであることに操作の楽しみがある。尻に響く路面、タイヤ、サス、フレームの感触、フレームから響く振動、すべてが全身に響く。五感すべてを動員し、感じ取り、身体を操った時に感じる車との一体感。

現在放送中の『 HIGHSPEED Étoile 』においてもAIアミちゃんはサポートをしてくれるが、操作そのものはレーザーに任されているのは好き(主人公輪堂 凛がAIに好きに走れと言われ、擬音を叫びながら走る。我に返り、アホっぽいと本音を漏らす輪堂 凛にAIが「アホと敗北、どちらを選びますか」という問いかけるは凄く好きです。)。

ダンスといえば、『ワンダンス』である。

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「どもるってどういう感覚?」ってよく聞かれる

個人的には溺れながら喋る感覚に近いと思う

呼吸のタイミングを見失う

珈琲、ワンダンス(2)(9P)

何度もイメージを重ねて練習してたら、ある日ふと基礎のリズム取りの感覚が変わった。

なんとも説明できない

本当に身体の芯に音が当たる感覚

さっきのバトルを見て確信した

ダンスバトルって決して

ダンス歴とか

フィジカルとか

難しい技を出したほうが勝ちとかじゃないんだ

シンプルな答え

より音楽に近づけたほうが勝ち

珈琲、ワンダンス(2)(162-163P)

会話のリズムにのれない吃音症の主人公が、音楽のリズムにのることに楽しみを見出していく。会話は相手の固有のリズムに合わせないとのれないが、ダンスは一つのリズムに共鳴する(そこに深い理解、浅い理解はあるが)。自らの身体を隅々まで動かし、特定のリズムにのるのは快感である。

自らの身体を意のままに操る、そしてその感覚をそのまま道具にまで延長する。この身体の拡張性は想像力の源泉の一つであり、オタクと一般人が共通してもつ感覚である。周りにあるものを環境と一つに括るのではなく、身体の延長線上と捉えると別の感性が生まれてくる。

[Interlude out]

6.以下性

フィクションと攪拌されたリアルの中で、しかしその狭間を漂う存在には決してなれないというところに、現代的な「切なさ」が生じている。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.170)

(略)現代という時代に起きていることを真面目に把握しようとするほど心身をすり減らしてしまうこともまた問題になっている以上、<セカイ系>的な曖昧さの中にとどまることは、ある種のオルタナティブな倫理の提案になるのではないか

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.225)

『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』には不定形になることへの憧れ、そしてアイデンティティを一貫させなければならないという強迫観が滲み出る。そもそもこの前提は、アクチュアルではない。

それは彼が、一つのセクシュアリティを通じてアイデンティファイされることを拒否するとともに、一つの欲望によって行動の可能性があらかじめ決定されることを徹底して拒絶するからだ。私は誰であるかという問いにかえて、我々はいかなる行動をなしうるか、我々はいかなる快楽を味わいうるかという問いを提出しつつ、彼は、生の新たな肯定の可能性を開こうと試みるのである。

慎改康之,セクシュアリティと欲望の真理 フーコーと性解放運動(p.8-9)

sexualite.pdf (meijigakuin.ac.jp)

フーコーは示唆する。セクシュアリティ等の自身にとって所与とされるものでアイデンティファイ=行動の制限を受けることを拒絶し、行動の次元において可能性を開こうとする。ようするに匿名であれば、アイデンティティのレベルでの一貫性を求められず、それぞれの場におけるルールに基づき、行動の次元によって主体性を判断される。

ポール・ヴィリリオの予言「コミュニケーション技術が作り出す歴史と物語と幻覚ユートピアの混合物だけが存在するようになる。」は実現している。そこには統一的な場は存在し得ず、あくまでその場その場に適した行動様式=振る舞いがあるだけである。すべての場に対して、自らの主体性を仮託するようなあり方は疲弊する。

社交性(友達とのちょっとした会話とか、会社でのやりとりなどを思い浮かべてほしい)とは、自分の実存をまるごと賭けることではない。むしろ自分のいくつかの部分のみで、自分を「控えめless」にして、自分の「以下性lessness」を駆使してつきあうことである。個々の実存まるごとをホットに社会全体の目的へ直結させることがファシズム的であるとすれば、自分を「以下」にすること、それぞれの程々の「ひきこもりwithdrawal」にもとづく社交性のクールさはファシズムに対する防波堤であり、かつ、場合によってはファシズムへ熟していくかもしれない関係の初めの温度である。この意味で社交性とは、あらゆる関係の可能性の条件、どうでもよさの条件であり、それが(内面なしの)身体と身体のアドホックな黙約において露わにされるのが「ハッテン場」という社会の影なのだ。

『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.394引用

主体は主体そのものを他者に提供することによって社交性を勝ち得るのではなく、以下性によって保証されるバリアントでありかつ分離した複数性によって社交性を確保する。この思想はフーコーに呼応している。

このような「以下性」に極めて自覚的に作成されたライトノベルが『人類は衰退しました』である。

人類は衰退しました』に登場するキャラクターに新人類である妖精さんがある。

高い知能や技術力を持つが、普段はその能力を発揮しようとはせず、とくに何かをするわけではなく、ただ、ゆらゆらと流されて生きている。別段、一人で何もせずに存在しているだけでも問題は無いらしい。
「楽しいこと」が好きで、「楽しいこと」を見つけると、瞬時に数千人単位で集まって、でたらめな文明を作り上げ、飽きるとあっという間に散ってしまう。

付け足すなら、妖精さんは外見での区別が難しい。これらの特徴はバーチャル空間における人間そのものである。

【OP】 人類は衰退しました 【多分高画質】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

魔法によって容易く人や動物、物質の立ち位置を入れ替える、このような妖精さんが存在する世界を以下のように表現する。

Amazon.co.jp: 人類は衰退しました1 (ガガガ文庫) 電子書籍: 田中ロミオ, 戸部淑: Kindleストア

今の世界は、勘違いのもとで成立している。知らぬままでいれば、我々は心におさまりきれないものを外に放ち続け、様々なものを命の定義に引き上げ続けるだろう。それがこの世界を豊かで、おもしろおかしいものにすると私は信じる。多様性の暴力を私は信じる。おまえはどうだ?

田中ロミオ,『人類は衰退しました 9』 ,p.280)

妖精さんという以下性に基づいた主体は、平凡性を気にしない。「楽しいこと」を見つけ、飽きて、いずれどこかに去っていく。主体に自己を賭けないことは、異なるモノにさえ、主体を見出すことができる。それは多様性を担保する。

少なくとも「天使」に自己を仮託するよりも、おもしろおかしく遊ぶ平凡な存在であることを受け入れ、飽きるまで真剣に遊びつくす、そのような主体の方がHaving Funである。

7.サークル系

坂上 ひとつジャンル分けの概念を提案してみたいんですが、現在のポップカルチャーを規定している枠組みとして、サークル系と超越系という分け方ができるんじゃないかと思うんです。(中略)『まどか』や『シュタゲ』のように、アンチリアリズムや超越的な力が物語に深く関わってくるようなものを超越系とみなせる一方、サークル系っていうのは『ハルヒ』に端を発し現在のライトノベル市場を席捲している、学園や部活動といった日常を中心としたコンテンツのイメージです。

ビジュアルノベルの星霜圏』収録,坂上秋成,村上祐一,佐藤心共同討議「ビジュアルノベルの可能性-「不気味なもの」を超えて私たちが生き延びるために」,P.246引用

2011年に刊行された『ビジュアルノベルの星霜圏』において、セカイ系以降のポップカルチャーにつて、サークル系と超越系という分け方を坂上が提案する。

2010年代の概観として適切な区分けであり、かつ「社会がない」という社会性のあるテーゼを持ったセカイ系が後退した理由を説明できるため、援用する。

坂上秋成におけるサークル系のイメージは以下のとおりである。

男キャラクターも女キャラクターも等しく重要な役割を担っている空間があり、そこをカーニバル的に機能させることでユーザーに楽しんでもらうという構造をサークル系は持っています。

ビジュアルノベルの星霜圏』収録,坂上秋成,村上祐一,佐藤心共同討議「ビジュアルノベルの可能性-「不気味なもの」を超えて私たちが生き延びるために」,P.246引用

坂上秋成のイメージにおいて、重要な指摘は「カーニバル」である。

謝肉祭 - Wikipedia

(略)「距離を破綻させて、隣り合うはずのないフレーズやスケールをつなげてしまう想像力」として<セカイ系>を捉えているのだと布施は言う。この解釈を踏まえると、展覧会も「本来隣り合うはずのない」さまざまな来歴を持った芸術作品をひとつの空間にまとめることができるという意味で、同じ構図の中と言える。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.195)

北出栞も展覧会を例にとって、同様な指摘をしている。カーニバルは都市が脈々と持っていた文脈を無化し、自らや社会を見直す機会である。

※『夜のクラゲは泳げない』において、まひると花音が出会うタイミングがハロウィンであることは示唆的である。

【ノンクレジットOP】TVアニメ「夜のクラゲは泳げない」| カノエラナ「イロドリ」 (youtube.com)

このカーニバルのように文脈を無化させる行為がサークル系というジャンルにおいてどのように機能したかを検討する。

結論から言うとサークル系では、参照する理想的なモデルを否定するという行為を限られたメンバで共有するという儀礼的な振る舞いによって実現している。理想的なモデル=青春、もしくは青春の代表的な経験である恋愛体験を否定するライトノベルの代表に『僕は友達が少ない』がある。

Amazon.co.jp: 僕は友達が少ない (MF文庫J) 電子書籍: 平坂 読, ブリキ: Kindleストア

僕は友達が少ない』は、自分には友達がいないと信じている主人公長谷川小鷹らが、「隣人部」なる部活をつくり、部活動と称して友達づくりの練習をする日々を描いたライトノベルである。『僕は友達が少ない』の特徴を良野通は以下のように纏める。

Amazon.co.jp: ライトノベル・スタディーズ 電子書籍: 一柳廣孝, 久米依子: Kindleストア

小鷹たちと読者との世界には差異がある。例えば、隣人部のメンバーは昼休みに一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行く。そして間違いなく、その活動を楽しんでいる。読者の立場から見れば、小鷹たちは友達だと躊躇せずに言えるかもしれない。だが、登場人物たちはみな、自分には友達がいないと主張する。このズレは「友達が少ない」という作品外の規定と「友達がいない」という作品内の規定との齟齬によって、自覚的に示されたものと考えられるのである。

(『ライトノベルスタディーズ』,p.235)

そもそも学校は社会を学ぶという目的の為に、社会から隔離される場と指摘出来る。隔離された場として機能するには社会とは異なったルールで動くことが必要となる。その明文化されないルールの束こそを、青春を営む条件であるとも言える。一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行く。それらの1つ1つは青春として明文化はされていないが、外部から青春を対象化して語るときにはそれらの行為を青春と総括する。

対象化されたと自覚しなければならない状態にもし長谷川小鷹は青春が色褪せることを望むだろうか。望まないだろう。また望む望まないを問わず、学校の隔離はうまく機能していない為、いたるところに穴が空いている。多孔化した学校は社会から様々な経路で、理想的な青春の過ごし方を押し付けられ、日常は容易く揺さぶられる。長谷川小鷹らは外部への参照を避けて、隔離という機能のみを機能させるかを戦術的に選択する。良野通は長谷川小鷹の戦術を以下のように纏める。

したがって隣人部での活動は、それが小鷹たちにとって「本当の友達」に相当する関係だから楽しいのでなく、そうではないからこそ楽しいのだ。理念的な「本当の友達」が常に存在を否定され続けているからこそ、彼らは安心できる。隣人部の面々は、自分たちには「友達がいない」と前提することによって生み出した、「友達がいない」と前提することによって生み出した、「友達」という空虚な言葉に形を与えないよう戯れている。言うならば、虚構の世界を生きているのである。(中略)理想は、「こうである」という肯定の形ではなく、「こうではないもの」という形をとることになったのである。

(『ライトノベルスタディーズ』,p.243)

良野通が指摘した通り、隣人部の活動はそもそも、友達付き合いの練習をする部活動である以上、本物ではないという留保がついている。その為、何をやっても本物ではないと否定することが許される。理想を否定するのは簡単である。全体を見渡すことのない曖昧な青春という状態を肯定するよりも、一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行くという個々の場面を実践し、隣人部の活動では理想通り出来ないと結論付ける方が容易く実現可能だからだ。

長谷川小鷹らは参照する/提供されるというモデル自体を否定するのではなく、モデルを構成する1つ1つの事例に対して実現不可能だと否定した。参照する/提供されるという不可避な社会構造を否定するのではなく、“理想的な青春”を1つのモデルとして形付けさないことを実現し、社会からの不干渉を成立させた。結果、長谷川小鷹らは社会から心理的に離れた自分達のセカイを成立させることに成功させる。

このセカイは砂上の城である。しかしその砂上の城をつくり続ける行為は、社会からの猶予を作り出す。つくり続ける行為にこそ、セカイが宿る。

(略)現代という時代に起きていることを真面目に把握しようとするほど心身をすり減らしてしまうことも問題になっている以上、<セカイ系>的な曖昧さの中にとどまることは、ある種のオルタナティブな倫理の提案になるのではないか。

北出 栞. 「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術 (p.225)

北見 栞が希望をみた<セカイ系>に基づくオルタナティブな倫理、それはサークル系で実現された。サークル系の持つオルタナティブな倫理性を取り込むには、"セカイ系"の射程をサークル系を取り込まないといけない。ゼロ年代批評に準拠した<セカイ系>では、サークル系は取り込めない。

北出 栞が仮託する「沈黙と祈り(その作品的な表れとしての〈セカイ系〉)」では、新たなセカイが表れることはない。「沈黙と祈り」は文脈への服従と一体であり、そこにあるのは錯乱する文脈を受け止めようとする無信仰者である。それはまさに天使である。

システムの中で生きる個人としての価値観が「沈黙と祈り(その作品的な表れとしての〈セカイ系〉)」なのであれば、その価値観をたずさえて現実に立ち向かっていく際の価値観は「オルタナティブ」で、これからの北出はその両輪で戦っていくことになるだろう。

https://x.com/sr_ktd/status/1791391771068662097

猶予を作り出す行為は、オルタナティブな倫理に繋がる。オルタナティブな倫理という文脈で、鈴木謙介はゲーム『セカンドノベル』について以下のように評する。

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社会学的に解釈するならば、『セカンドノベル』とは、彩野が語る「ファースト・オーダー(一次)」の物語を「セカンド・オーダー(二次)」の視点から語りなおすことで、現実世界をどのように解釈し、どう生きるかについての新しい見方を獲得する「自己物語セラピー」のゲームだ。それゆえ個人の決断は、ぞもそも状況に関わるとか、逆に(『AIR』のように)介入できないことに絶望するとか、そういう水津では行われない。 確かに直哉は彩野への思いを彼女に伝え、彼女とともに生きることを選択する。だが彩野はそのことを記憶できないわけで、ゲーム全体のエンディングで描かれる二十七歳になった直哉は、そうした彩野との生活に徒労感を覚えているかのようにすら見える。変えられるのは、その現実をどう語るかという「物語」の部分でしかないのだ。

ビジュアルノベルの星霜圏』収録,鈴木 謙介「ルールを「裏切る」ことからの希望--リイシュー。ポータブル機、『セカンドノベル』」,P.64引用

『セカンドノベル』はゼロ年代批評の<セカイ系>の期待を裏切る。そこにケアに繋がる回路があることが分かる。奇跡に縋るのではなく、言説に従うのではなく、モノローグの次元で現実とは異なる希望を見出すのである。

サークル系と"セカイ系"の共通点は、モノローグである。社会から要請される文脈を、セカイを閉じることで無化し、無意味=反復の中での違和感をもとに、自らのあり方をモノローグで紡ぐ。この行為は主体を飼いならす、自己の統治に繋がっていく。

8.超越系

坂上秋成における超越系のイメージは以下のとおりである。

(略)明らかな超越系である『まどか』が大ヒットしたことを考えても、人がみなサークル系の楽しい日常ばかりを求めているわけではなく、リスクが生じることも覚悟して飛び込む非日常としての超越系をも求めているとはいえるでしょう。

ビジュアルノベルの星霜圏』収録,坂上秋成,村上祐一,佐藤心共同討議「ビジュアルノベルの可能性-「不気味なもの」を超えて私たちが生き延びるために」,P.246引用

リスクが生じることも覚悟して飛び込む非日常と称した"超越系"の最北は今、「なろう系」にある。「なろう系」を代表するジャンルに「異世界転生」がある。それは「なろう系」の小説が連載されているサイトの代表「小説家になろう」の出自と大きく関わっている。

小説家になろう」と同じ運営会社が提供していた二次創作小説専門サイト「にじファン」がある。ここで流行したジャンルが「俺Tueee系」と「オリ主転生」である。「俺Tueee系」とは一次創作の主人公を原作以上に隔絶した能力を与え(チート)、原作の筋書きを破壊し、自らが望むストーリーを展開するジャンルであり、「オリ主転生」とは原作の筋書きを決定づける主人公に介入(ときに敵対する)ことで自らが望むストーリーを展開するジャンルである。

このジャンルは「にじファン」において、『ゼロの使い魔』の二次創作として展開されることが多かった。

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ゼロの使い魔』はファンタジー世界に異世界転生する、所謂異世界転生モノのライトノベルである。そこに俺Tueee系、オリ主転生といった要素を加え、一つのジャンルとして発展していった。この二次創作の要素は「にじファン」から「小説家になろう」に持ち込まれ、「異世界転生」として発展していく。「異世界転生」というジャンルは出自からオリジナルとは異なる可能性を追求する物語、その手段として主人公を超越的にする、もしくは超越的な存在に介入する存在を出現させる。

このような特徴に自覚的なのが『無職転生異世界行ったら本気だす~』である。

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無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜 - Wikipedia

無職転生』の主人公ルーデウス・グレイラットは転生者である。

前世では高校時代の虐めが原因で34歳まで引きこもって両親の葬式にも出なかったため、兄弟に家から追い出されてしまい、直後にトラックに轢かれかけた高校生3人を助けようとして事故死した。転生後は前世で何事も中途半端に投げ出した後悔から、今度こそ真面目に生きようと決意する。

無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜 - Wikipedia

「真面目に生きようと決意する」というのは、主人公が超越的に生きることを意味しない。それはフィットア領転移事件のストーリーからも分かる。ルーデウスとエリスは故郷から突如転移し、過酷な魔大陸を生き抜くことになる。魔大陸で出会ったルイジェルド(子どもばかりを狙う怪物「デッドエンド(会うと死ぬ)」と恐怖されていた存在)と冒険者パーティ「デッドエンド」を結成し、「魔界大帝キシリカ」から新たな力を手に入れ、冒険者としての実力を増していく。しかし能力を増すことそのものに祝福はない。

実の父親であるパウロは、力を持ったルーデウスを特別な存在と見做していた。そのためルーデウスがフィットア領転移に巻き込まれた領民や家族を助けずに、楽しく冒険者をやっている(ようにパウロには見える)には激しく叱責される。

また数々の冒険を超えて、エリスの故郷であるフィットア領に戻ることに成功する。そして両想いであったエリスと結ばれる。しかしエリスは翌日、ルーデウスに手紙を残し立ち去る。ルーデウスはエリスが居なくなったショックでEDとなる。

無職転生』のフィットア領転移事件では、主人公が超越的な能力を得ることが、周囲との良好な関係を築くことに繋がらないことを描いている。

アニメ版『無職転生』の特徴として、ルーデウスの声優が2名体制であることが挙げられる。前世の声は杉田智が演じ、今世が内山夕実が演じる。これは前世は人生の反復の次元、今世が新たなる環境の実践の次元の分離を象徴している。

無職転生Ⅱ ~異世界行ったら本気だす~ 』の「第17話兄貴の気持ち」に反復と実践の分離が表出する。

無職転生2期OP②/「無職転生Ⅱ ~異世界行ったら本気だす~」第2クール ノンクレジットオープニング/「オン・ザ・フロントライン」ヒトリエ (youtube.com)

本話ではルーデウスの妹、ノルンが大学の寮に引きこもってしまう。前世で引きこもっていたルーデウスは自分の経験から、ノルンを救おうとする。ルーデウスはノルンが引きこもった原因を調査するが、その原因がノルンにとって嫌いなルーデウスが学園で尊敬を集める優秀な存在であり、比較されることによって、自身の平凡さが突きつけられることであることが分かる。自身が原因であることが分かってもルーデウスは、ノルンと対面することを選ぶ。

ルーデウス(CV.内山夕実):「俺、いるから。いなくならないから。お前のことちゃんと見ているから。だから、ここに居ていいか。」

※以下、モノローグ

ノルン:「兄はきっと、絶対私を殴らない。きっと父のことも絶対に殴らない。父は逃げなかった。兄も逃げなかった。なら私は」

※場面転換

ルーデウス(CV.杉田智):「結局、俺は何もできなかった。あの後、ノルンは何も話してはくれなかったし、何が不安で何が蟠っていたか、その本心は分からずじまいだった。」

ルーデウス(CV.杉田智):「おそらく自分で自分の気持ちに整理をつけたのだろう。すごい子だ。彼女は生前の俺にできなかったことをやったのだ。俺もあの時、ノルンのように出来ていれば。」

ルーデウス(CV.杉田智):「過去は変わらない。こじれてしまった家族との仲は戻らない。兄貴の真意も何もかもが闇の中だ。ただ長い間、奥歯に挟まったものがとれたような気がした」

ルーデウス(CV.杉田智):「もしナナホシが元の世界に帰るときがきたら、その時は兄貴に一つ伝言を頼もう。あの時はごめんなさい。そしてありがとう、と。」

無職転生Ⅱ ~異世界行ったら本気だす~ 』,「第17話兄貴の気持ち

嫌われて、避けられている自分であることを受け入れ、ノルンと対面を決意するルーデウス。「俺、いるから。いなくならないから。お前のことちゃんと見ているから。だから、ここに居ていいか。」とルーデウスが言うと、ノルンはルーデウスの顔を見る。そこには情けなく、後ろめたさが表面に出たルーデウスの顔があり、ノルンは受け入れることを決意する。そのノルンを見て、ルーデウスは前世の感情を整理することが出来る。

本話において展開された過去=反復とは異なる態度を今世で実践することで、新しい関係の可能性を開くあり方は、「なろう系」の「異世界転生」の特徴である。それは変えられない過去(前世)でできなかったことを、物語の次元で現実とは異なる希望を見出すのである。そしてリアルタイムに多数の次元が同居し、主体に反省を促すオルタナティブな倫理の形である。そして超越系の本質は、「超越的な力が物語に深く関わってくる」ことではない。過去の世界では関係できなかった僕が、現実世界から超越して、反省を糧に新たなセカイで当たらな関係を構築する行為に他ならない。超越的な力とは、セカイの超越の象徴であり、ルールである。

ここで注意が必要なのは、反省とは社会規範への回帰を意味しない。あくまで自らに行為の次元に回収されていく。

飯田一史は本作を2013年10月から5年以上にわたって1位を保持したことから、『無職転生』をなろうの代名詞と呼ぶ。しかしなろうの典型とは見做さない。そして『無職転生』に「欺く神との戦い」のモチーフが導入されたことは、陰謀論の時代、フェイクニュースが溢れるポストトゥルースの時代だからこその必然性だと言う。

「今度こそはきちんと生き抜く」…超人気作『無職転生』の“圧倒的切実さ”の正体(飯田 一史) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) (gendai.media)

これは正しくない。むしろ作品や主人公を自らの言説に奉仕させ、社会に還元しようとする批評という行為に対する忌避が、「欺く神との戦い」のモチーフを導入させたと指摘すべきだ。

批評そのものを拒絶することで、社会からの干渉を拒むのは「なろう系」を貫く一つの重大なテーマであり、それを体現した『無職転生』は正しく「なろう系」である。

「なろう系」は社会を、社会に繋がる批評を必要としない。「小説家になろう」、「カクヨム」に連載された作品は様々な期間、ジャンルでランキング化され、ビューを競う。「小説家になろう」、「カクヨムではランキング上位となった作品やサイト内で開催されるコンテストで上位をとった作品は出版の道が開かれる。そしてサイト内のランキングとビューは出版された時の謳い文句となる。

そして「なろう系」は物語を再生産し続ける。飯田一史の言う「主人公がチョロく勝ち進んでずっと気持ちのいい展開が続く」物語が多数生産され、需要される。この需要は生きる今日が精一杯で、繰り返しと認識する前に日々が消えていく不遇の人々がいるからだ。一時的にでも生=反復を感じる人がいるのであれば、尊重する。「なろう系」はシミュラークル=繰り返しであることは事実だから、いずれ飽きる。ただそのミクロな繰り替えしを、繰り返しの中で自分にとって重要な何かを掴める可能性を否定してはならない。

そして「なろう系」はシミュラークルであることを暗黙的に了解している。設定や初期の展開の被りはむしろ、「追放モノ」や「悪役令嬢モノ」とサブジャンル化され、内包されていく。そもそもナーロッパと呼ばれるファンタジー観すら共有している。

「なろう系」は必然的に「世界観設定」や「物語展開のテンプレ―ト」を前提にし、それを裏切ることが期待されている。

ジャンルのコードを裏切ること、それを肯定的に評価する文化は、語源であるゲームのチート文化や俺Tueee系まで遡れるかもしれない。

ジャンルの前提を共有しつつも、それを裏切る発想を求められる。そこには勇気がいる。物語における裏切りとは、言い換えるとほかの人には気づかれ難い要素同士の関連を見つける行為である。その関連が遠すぎると読者は理解できないし、ジャンルのコードから乖離したと非難される恐れがある。その関連が近すぎると、ただの反復として評価されない可能性がある。

この独自の関連性を見出し、物語に転嫁する行為はモノローグである。しかしこのモノローグは、サイトに投稿する以上、応答性を前提としている。モノローグである以上、受け取る可能性のある読者をそもそも選別している。しかしその一方で受け取る可能性を信じて投稿する。この一連の反復、差異化、物語化こそが「なろう系」の生態系を支えている。

8.セカイ系

"セカイ系":「現実世界では関係できない(不可能)な君と僕を、阻害する中間項を省くことで可能なセカイを開く想像力。そして中間項を省いた結果、不安定になったセカイに対してどのように立ち向かうかを問く想像力」

”セカイ”:「現実世界を切り取り、中間項を省く、もしくは代替品に変えてシミュレーションしたもの」

"主体":「異なる主体との行為応答性を持つもの。」

”自己”:「身体において自らの内部を統治するもの。」

”主体と自己の関係”:「自己は自らの内部にて、主体の行為応答を統べようとする存在である。主体は自己より先んじて動くため、主体は自己の統治から逃れられる。そのため自己と主体は常に緊張状態にある。」

"以下性":「妖精さん。平凡性=代替可能性を気にしない。「楽しいこと」を見つけ、飽きて、いずれどこかに去っていく。主体に自己を賭けないことは、異なるモノにさえ、主体を見出すことができる。それは多様性を担保する。」

"サークル系":「社会から要請される文脈を、セカイを閉じることで無化し、無意味=反復の中での違和感をもとに、自己のあり方をモノローグで紡ぐ。この行為は主体を飼いならす、自己の統治に繋がっていく。オルタナティブな倫理な形」

"超越系":「リアルタイムに多数の次元が同居し、反復に基づく反省を主体に促すオルタナティブな倫理。過去の世界では関係できなかった僕が、現実世界から超越して、反省を糧に新たなセカイでオルタナティブな関係を構築する行為そのものを指す。」

”超越的な力”:セカイの超越の象徴であり、セカイを貫くルール。大抵、バグがある。

 

以上が1.~7.章で定義した内容である。

文章にすると以下になる。

セカイ系”とは世界を切り取り、セカイを構築する。セカイを構築するには、まずセカイを密封=密室にしなければならない。

その密室は穴だらけで、防衛する必要がある。防衛しない場合、「沈黙と祈り」のような「崇高」さの誘惑に負け、不自由な主体になる。

手段としては主体に身体や自己を賭けない、"以下性"。セカイを意味的に閉じることで、一時的な留保を手に入れ、その留保の間に反復を繰り返し、自己のあり方をモノローグ形式で手に入れる、"サークル系"。リアルタイムに多数の次元が同居し、反復に基づく反省を主体に行為のレベルで促す、"超越系"がある。

セカイ系”が現実世界では関係できない(不可能)ことを、セカイで問い直す想像力であれば、その手段である"以下性"も、"サークル系"も、"超越系"もその射程である。

このセカイにおいて、神はUNKNOWNである。だからアガペーは存在しない。フィリアとエロスが綿々と紡ぐ「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。」。

ライトノベルが巡る恋愛の世紀末

 

本論考は、2014年の夏のコミケにて出版した同人誌に乗せた論考である。手入れすることも考えたが、引用した主要な著書のリンクを追記のみをし、公開している。

1.はじめに

東浩紀氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』にてライトノベルを巡る言説について以下の予言をした。

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実際にいまネットでは、上遠野浩平のデビューに切断を見いだし、ライトノベルの可能性の中心をセカイ系や一般文芸との境界的な作品に定め、『スレイヤーズ!』や後述の『ロードス島戦記』から切り離して考える言説が現れ始めている。

(『ゲーム的リアリズムの誕生』,p.111)

2014年現在において、この予言は外れたと言わざるを得ない。セカイ系上遠野浩平氏の作品『ブギーポップは笑わない』もライトノベルを巡る言説の俎上にあがることはもはや稀だ。またその事実を東浩紀氏本人も認めている。

まずは「セカイ系」という言葉から始めましょう。

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この言葉はほとんど聞かなくなりました。それでもそれは、ゼロ年代の日本文学を論じるうえで、かつて避けて通れないキーワードでした。

(『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』,p.15)

セカイ系ライトノベルで描かれるジャンルとしてもはや過去のものとなっている。現在のライトノベルは多種多様なジャンルがひしめいている。『とある魔術の禁書目録』が代表的な学園異能バトル、『人類は衰退しました』等の根強い人気があるSF、そしてWeb小説から人気が再燃した異世界ファンタジー等など。もはやライトノベルにおいて中心的なジャンルなど存在せず、読者の趣向は分散していると評されても間違いはないだろう。

しかし現在、強いてライトノベルの中心をあげるのであれば、平坂読氏の『僕は友達が少ない』、裕時悠示氏の『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』、渡航氏の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』等の学園ラブコメと呼ばれるジャンルに属する作品になるだろう。

上記に挙げたライトノベルには共通点が存在する。それは主人公が通常の恋愛をすることを否認していることにある。

僕は友達が少ない』の主人公羽瀬川小鷹はハーフであり、地毛がくすんだ金髪が特徴である。しかしそのくすんだ金髪のせいで髪を染め損なったヤンキーと周囲に誤解され続け、幼少期から友達がまったく出来ない。また笑顔が怖い、目つきが悪い等の要素も誤解に拍車をかけている。その結果、転校後、入部した隣人部のメンバを初めて出来た友人として大事に思っている。だが友人関係を尊重するばかりに柏崎星奈が隣人部全員の前で小鷹に告白された際に、友人関係が崩壊することを恐れ、誤魔化そうとする。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の主人公比企谷八幡は女生徒達の表面だけの優しさに裏切られたり、中学時代に告白して振られた事を告白相手に言いふらされて笑い物にされるなど恋愛に関してトラウマがあり、好意を寄せるヒロイン達に対して及び腰になってしまう。

最後に『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』の主人公季堂鋭太は息子からみても過剰に愛し合っていた両親が徐々に不仲になり、中学3年の夏に主人公を置いて、お互い密かに作っていた恋人と二人揃って蒸発した。その経験から恋愛全般に対し強固な不信感を持ち、「恋愛アンチ」を自負している。

主人公の立場、恋愛に対する考えなどには多少の差異があることが分かるが、彼らは共通して恋愛に対してネガティブな感情を持っていることが分かる。

しかし奇妙なことに上記の全てのライトノベルはラブコメである以上、主人公とヒロイン達は恋愛関係を進行させようとする。主人公達は恋愛を諦め(否定)している為、ヒロインとの恋愛は歪つな形でのみ進行していく。例えば『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる8』ではヒロインの助言に従い、恋愛アンチを自認していた季堂鋭太は自らの考えを歪め、通常の恋愛に対するアンチを貫きつつものヒロイン達と自らの幸せの為にハーレムを形成することを決心している。

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――俺が救ってやる。

千和も、真涼も、ヒメも、あーちゃんも。

ぜんぶまとめて、俺が愛してやる。

だけど心は渡さない。

俺は絶対に誰も好きにならない。

恋愛アンチを貫き通したまま、全員を愛してやる。

 

誰よりもモテまくりで、誰よりも孤独な男の誕生だ。

 

恋愛脳ども、活目せよ!

俺という存在に戦慄せよ!

 

偽りのハーレム王。

 

それが、これからの俺の夢だ!

(『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる8』,p.240)

季堂鋭太の選択は現在のライトノベルにおいて、決して異常な選択ではない。ライトノベルにおいて主人公が恋愛を望まない(もしくは通常の恋愛が出来ない状況に追い込まれる)ながらも、恋愛をしなければならないという状況に追い込まれるというのは稀ではない。

例えば『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』では高校生の主人公甘草奏が「絶対選択肢」と自ら名づけた望まない能力のせいで、変態じみた行動を余儀なくされる。その結果、甘草奏は美形でありながらも女生徒から嫌悪されている。「絶対選択肢」から解放されるには携帯に届くミッションをクリアする必要があり、そのミッションを通じて甘草奏の周りに居る「お断り5」と呼ばれる一風変わったヒロイン達と交流を深め、恋愛をせざるを得ない環境に追い込まれていく。

また他ジャンルである異能バトルのライトノベルにおいては、異能を獲得する契約としてヒロインとキスをするというモチーフが頻発する。『国家魔導最終兵器少女アーク・ロウ』では無力であった主人公エルク・リードが、世界を変える能力を得る為に、人型兵器(無論、美少女ではある)イスカと主従契約のキスを実施するというのは典型であろう。

特に異能バトルのライトノベルにおける恋愛は主人公とヒロインのコミュニケーションの結果、成就するものではなく、主人公とヒロインが何かしらの困難な状態を乗り越える手段として恋愛的だと思われる行為を実施せざるを得ない状況に追い込まれるという迂遠な経緯を辿ることが多いと指摘出来るだろう。

以上からライトノベル全体に通底しているモチーフとして(1)「 主人公が通常の恋愛の実施可能性を否認していること」、(2)「主人公が通常の恋愛の実施可能性を否認した結果、歪な形での恋愛が成就すること」があると指摘出来る。

私は上記にて指摘した2つのモチーフから以下の推論を導く。

ライトノベルとは恋愛の不可能性を前提にした恋愛小説ではないか”

上記推論を検証する為に本論文では東浩紀氏がライトノベルの可能性の中心と見出したセカイ系や一般文芸との境界的な作品が徐々に後退し、恋愛の不可能性を前提にした学園ラブコメが中心になった経緯を述べていく。

第2章「恋愛の不可能性について」では典型的なセカイ系作品とされる『イリヤの空、UFOの夏』を取り上げ、東浩紀氏や宇野常寛氏によるセカイ系の批評を検証していく。その検証の中でライトノベルの主要なテーマが“恋愛の不可能性を前提にした恋愛”に移行した経緯を明らかにする。

第3章「青春の肥大化について」では『僕は友達が少ない』を取り上げ、青春という虚構が持つ過剰なまでに外部への参照を強要する機能を隣人部というクラブ活動によって表層的に否定し、虚構的な関係が創りだす功罪について検証する。

また第4章「以下性という希望」では第2章、第3章の検証を通じて判明した構造的な恋愛の不可能性を整理する。そして最後には“恋愛の不可能性を前提にした恋愛”という困難なテーマに1つの希望を与えた『人類は衰退しました』を紹介する。

2.恋愛の不可能性について

本章ではまずライトノベルにおけるセカイ系について論ずる。セカイ系を巡る代表的な言説は東浩紀氏による『ゲーム的リアリズムの誕生』におけるセカイ系の定義と、宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』によるセカイ系に対する批判がある。

Amazon.co.jp: ゼロ年代の想像力 eBook : 宇野 常寛: 本

まず東浩紀氏のセカイ系の定義から確認しておく。

けれども一般には、主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結させる想像力を意味するものと理解されています。必ずしも文学作品においてのみ現れたものではなく、初期の代表作として、(中略)秋山瑞人ライトノベルイリヤの空、UFOの夏』といった作品がよく挙げられます。

(『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』,p.15- p.16)

セカイ系の作品に対する毀誉褒貶は著しく、「セカイ系の作品は、物語内で世界の危機を描いているようでいて、実際にはリアリティのない子供だましの設定しか導入していない」という指摘があるのは事実だ。これは主人公である僕が住む現実の世界を模した日常パートとヒロインが住む「世界の危機」という非常事態、つまり戦争が描かれる非日常パートという2つの解離しなければならない状態が、キミとボクとの恋愛関係という最小限の関係性によって容易く直結されているように解釈出来ることに原因が求められる。

ただしこのような批判は笠井潔氏の「キミとボク(略)が「引き裂かれ」てしまうリアリティにセカイのセカイ性は込められている」という指摘を理解すると、批判される短所であるリアリティの無さは反面、別のリアリティを引き出す技法であることが分かる。セカイ系におけるリアリティとは作品内に描かれた「世界の危機」の現実的なリアリティに依拠するのではなく、非日常と日常が容易く入れ替わることで偶然交わったキミとボクのセカイが、反復を繰り返すことによって露わになるセカイの不安定性によって引き裂かれるという社会的不安にこそ依拠していることが分かる。

「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結させる想像力とは、個人の力では太刀打ち出来ない離別に対する不安や恐怖を現代的に捉えるための想像力と言い換えても良い。東浩紀氏も

僕の問題意識においては、セカイ系とは、文学の問題というより、むしろ社会の問題だったのです

(『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』,p.17)

と指摘している。

以上の東浩紀氏のセカイ系の定義を前提に宇野常寛氏のセカイ系に対する批判を確認する。宇野常寛氏は東浩紀氏のセカイ系に対する定義を強く意識している。その為か、セカイ系における代表作として東浩紀氏と同様に高橋しん氏の著作である漫画『最終兵器彼女』、新海誠氏が監督を務めたアニメーション『ほしのこえ』、秋山瑞人氏の著作であるライトノベルイリヤの空、UFOの夏』を挙げている(宇野常寛氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』p.96に記載されたセカイ系の代表作をそのまま挙げている)。宇野常寛氏は東浩紀氏に依拠しつつも、セカイ系に対して厳しく批判をする。

凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(たいてい世界の運命を背負っている)がいて、彼女は世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される。

したがって「セカイ系」において、「終わりなき日常」を超越する意味=物語は、このような「無条件で自分にイノセントな愛情を捧げてくれる美少女からの全肯定」で満たされることになる。これはキャラクターへの承認が母的な存在によって無条件に得られるという点において、九十年代の「引きこもり/心理主義」のもっとも安易な形での完成形だと言える。(『ゼロ年代の想像力』,p.83)

宇野常寛氏特有の用語である「引きこもり/心理主義」について補足すると、「引きこもり/心理主義」とは母的な存在(女性キャラクター)によって主人公の少年の意思が無条件で承認されることによって、全能感を獲得しようとすることを指している。

また宇野常寛氏は『イリヤの空、UFOの夏』をライトノベルにおけるセカイ系の代表として名指しで批判する。

高橋しん最終兵器彼女』、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』のヒロインもまた、主人公の少年の代わりに「決断」し、手を汚していた。「セカイ系」とは、九十年代後半的な「~しない、というモラル」を主人公に貫徹させるために、自分だけではなく他人(戦闘美少女)に決断させ、そして彼女に無条件で必要とされることでその結果だけを享受しようとする態度に他ならない。まるで、渡辺淳一愛の流刑地』で、ヒロインが主人公に「殺して」と自ら求めることで、彼女を殺害した主人公が精神的に免罪されたように。

セカイ系」とは、その支持者に「~しない、という(九十年代後半的な)モラル」の貫徹であると主張されるが、実際には「自分で責任を取らず、その利益のみを享受する決断主義」でしかないのだ。

(『ゼロ年代の想像力』,p.129-129)

この批評は『イリヤの空、UFOの夏』に対する典型的な誤読である。しかしこの誤読こそが、ライトノベルにおけるセカイ系の本質を、そしてライトノベルのテーマが“恋愛の不可能性を前提にした恋愛”に移行した原因を読み解く上でのヒントになる。

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ここで遅くなったが、『イリヤの空、UFOの夏』について簡単に説明する。『イリヤの空、UFOの夏』は2001年から2003年にかけて出版された秋山瑞人氏原作のライトノベルである。

主人公浅羽直之は夏休みに最後の思い出として一人で夜遅くのプールに忍び込んだ。だがプールには先客として手首に金属の球体を埋め込んだ謎の少女伊里野加奈と出会う。一夜限りの出会いだと思っていが、伊里野は浅羽と同じクラスに転校してくることとなる。転校後、伊里野は学校生活に馴染むことをしなかったが、浅羽との映画館デートや文化祭デートで伊里野は心を徐々に開き、浅羽を基点としたクラスメイトとの交流によって徐々に学園生活に馴染んでいく。伊里野との交流を通じて、浅羽は「世界の危機」、つまり地球がUFOの侵略を受けていることがゴシップではなく、事実であることを知っていく。そして伊里野がUFOに対抗できる重力制御機関を搭載したブラックマンタと呼ばれる戦闘機を操れる数少ないパイロットであることを知る。

UFOの侵略があっても終わることの無いと思っていた伊里野との日常(セカイ)は、UFOの侵略の激化によって終焉を迎える。伊里野は兵器として酷使され、学校に来ることさえままならなくなる。しかし伊里野にとって浅羽と一緒にいることが一番重要になり、かつはじめて生きて帰りたいと思うようになり、出撃を回避したいと思うようになった。伊里野は浅羽に、現状を告白する。浅羽は悩みつつも、このまま伊里野が使い潰されることを拒否し、共に学校を脱走し、潜伏生活を初めた。

しかし潜伏生活は長くは続かない。逃亡を続け、ようやく見つけた潜伏先である学校でホームレスの吉野とノラ猫校長との営んでいた奇妙な擬似生活は吉野が伊里野を強姦しようとして返り討ちにあった事件がきっかけとなり、崩壊する。

長期化した社会の庇護下にない生活、伊里野との軋轢などのストレスによって浅羽は暴言を吐き、伊里野を否定をする。その結果、限界にあった伊里野は壊れ、浅羽を認識できなくなると共に、記憶が時間を遡っていく結果となる。記憶の遡行中で浅羽は伊里野を連れて歩くが、浅羽として認識されることなく、常に別人としての役割を与えられる。そんなカウンセリングのような状態の中で、浅羽は伊里野の秘めた思いを知ることになる。伊里野と共に生きるという決心を改めて強くし、逃亡先である祖父母の家に到着したが、そこにはすでに伊里野を回収する榎本がいた。榎本は浅羽に伊里野と浅羽の出会った経緯を説明し、浅羽に伊里野と共に逃げ出す機会すら与えたが、浅羽には社会に抵抗する力は残っておらず伊里野が回収されるのをただ見届けるしかなかった。

日常に帰還したと思った浅羽は伊里野を失ったという事実を、友人に失恋したという指摘を受けることで日常に回収させた。しかし日常に回帰された浅羽は唐突に機関の人間によって回収される。それは伊里野が浅羽に否定された後の記憶を失っていた為、気がつけば基地に居たように思えた為である。そのため、浅羽に完全に見放されたと思い、自暴自棄になり戦闘を拒否することになる。浅羽が登場し、伊里野の正気を取り戻させる。そして、浅羽が伊里野の為ならば世界を敵に回してもよいと宣言したことにより、これまで「浅羽がいるから死にたくない」だった気持ちが、「浅羽のためなら死んでもいい」という気持ちに昇華され、最終決戦に出撃した。

浅羽は兵士に拘束され、最終決戦の詳細を知ることもなかったが、日常に無事帰還し、日常が終わらなかったことから最終決戦にて人類が勝利したことを知る。だが伊里野は帰還しなかった。浅羽はひとりでミステリー・サークルをつくろうと決心する。

結末部分の纏めが粗雑であることは許して頂きたい。ここは秋山瑞人氏があえて結論を描写しなかった部分であるからだ。だが宇野常寛氏の「彼女に無条件で必要とされることでその結果だけを享受しようとする態度に他ならない」という単純な批判に該当する箇所は『イリヤの空、UFOの夏』には存在しないことは分かって頂けるだろう。

イリヤの空、UFOの夏』では伊里野がUFOの侵略に対抗した詳細を浅羽は知り得ないし、浅羽が伊里野と逃走した詳細を伊里野は知り得ない。むしろそれでも2人は2人の為に行動し、その結果が社会を経緯して、匿名的に社会に還元されていると指摘すべきだろう。社会を経由して間接的に結果を享受したことを、セカイ系の悪質であると難癖することは可能であるが、それはセカイ系を否定する批判ではなく民主主義社会における対他関係を否定する的外れな批判に終わる。重田園江氏は社会の匿名性を以下のように表現している。

フーコーの穴: 統計学と統治の現在 (明治大学社会科学研究所叢書) | 重田 園江 |本 | 通販 | Amazon

国民と見なされた人間は匿名化されている。というのは、誰が誰に対して、という対面的な関係、固有名を持った存在としての対他関係(ニーズとケアの関係)がいったん断ち切られるからである。そのために、国家構成員はまず、保険料や税として金銭を公的機関に納め、それらの機関を通じて、必要があると認められた人に、保険給付や扶助、公的サービスとして、金銭や物品、さまざまな便益が提供される。こうしたプロセスを経ることで、財の一部を社会に提供することは国民の義務として、助け合いの関係は国民という抽象化された個人間の権利―義務関係へと置き換えられる。

(『フーコーの穴』,p.170)

民主主義への参加は個々人の相互の認証に依存されてはならない。その代わりに公的機関による国家構成員の保証によって成り立つ。匿名性とは社会からの管理によってのみ裏打ちされている。この点からむしろ『イリヤの空、UFOの夏』において注視しなければならないのは、伊里野と浅羽の意思決定=恋愛が間接的に管理されていることである。2人の意思決定を間接的に制限し、結果を誘導しようとする機関の態度は最終巻で、一隊員からの手紙による告白で分かる。その手紙には伊里野と浅羽の出会いが“子犬作戦”という悪質な戦術であったことが記載されていた。

伊里野は浅羽と出会う前は同じパイロットの仲間を守ることをモチベーションに戦っていたが、最終的にパイロットがイリヤ1人のみとなり、戦う理由がなくなってしまった。

“子犬作戦”とは生きる意思さえ失くした、伊里野のモチベーションを回復する為の作戦であった。機関は伊里野を学校に通わせることにより、学校のクラスメートを含む世界(=子犬)に情を抱かせ、戦う理由を与えようと目論んだ。結果、この作戦は成功し、浅羽の為にならば「浅羽のためなら死んでもいい」とまで思わせることまで出来た。

子犬とはもちろん、あなたのことです。

あなたを含めた、この世界全体のことでもあります。

伊里野に子犬を与えて、今日からお前がこいつの面倒をみろと命令して、情が移ってかわいくて仕方がなくなってきたころにその子犬を取り上げて、こいつの命が惜しかったら死ぬまで戦えと命令する。――私たちのやっていることはそれと同じだ、というわけです。

(『イリヤの空、UFOの夏』,p316)

伊里野は少女であっても、世界ではない。むしろ社会を防衛する為に使役される代わりのない道具でしかない(それは同じブラックマンタのパイロットであるエリカが撃墜されたエピソードからも分かる。)あくまでブラックマンタを操縦出来るパイロットが必要なのであって、伊里野という人間そのものは社会にとっては無価値である。伊里野という人間であることは保証されていても、伊里野という人間である性質は無価値なのだ。

また同様に社会にとって浅羽という人間は無価値である。あくまで伊里野という少女が望んだ“子犬”が浅羽という人間であっただけであって、社会にとって必要なのは伊里野という少女が希求する“子犬”という役割でしかない。

宇野常寛氏が指摘した全能感の回復はあり得ない。宇野常寛氏の誤読は東浩紀氏が擁護したセカイ系から批判する際に、恋愛「世界の危機」「この世のおわり」といった大きな問題に直結させるという意味を、単純にセカイ系に登場する少女を巫女のように世界を代表する存在としたこに起因する。世界を代表する母的な存在に承認されることで全能感を回復することはエヴァンゲリオン的ではあるが、『イリヤの空、UFOの夏』では伊里野はただの兵器でしかない。そして仮に伊里野からの無条件の承認を受けても、背後には常に社会からの非承認(子犬作戦)が隠されている。

イリヤの空、UFOの夏』では社会による抗えない排除というテーマに貫かれている。

デイヴィッド・ライアン氏は社会による抗えない排除を以下のように表す。

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監視という社会的オーケストレーション様式は、道徳性や正義といった何らかの共有された基準でなはなく、純粋に功利主義的な規範にしたがって作動するので、正義という言語を迂回して進んでしまうのである。それは、生活状況を道徳面での吟味から切り離す役割を果たす。それは分類メカニズムによって、端的にそれ――メカニズム――以上の何者でもないものによって機能する。官僚制と同じように、個人的責任・感情・情動・道徳判断は排除される。けれども、、その自己言及的な特性にもかかわらず、それを実に効率的に機能する。そこで創出されるデジタルなペルソナ、相補的なコンピュータの自己は、その原型に当たる人間側から認識されないかもしれないが、しかし、後者のライフチャンスに根本的に影響を与える。

(『監視社会』,p.117-118)

大多数の最大幸福の原則に沿った機能を許容することは、自動的に弱者がリスクを背負うことを意味している。もし仮にこの社会の管理から逃げ出そうとしても、間接的にライフチャンスに影響を与えることで徐々に社会から排除される。

イリヤの空、UFOの夏』において主人公である浅羽は二度、社会からの排除に直面した。ただこの社会からの排除は決して、社会からの管理からは逃れることを意味しなかった。社会からの恩恵が与えられなくとも、義務を果たすことを要求される。浅羽の場合、結果として伊里野を戦場に追いやったように。

浅羽は社会の管理の支配下である日常にも、非日常にそのまま帰還することを拒否する。ブラックマンタを操る伊里野が居る空から見えるミステリー・サークルを作り上げることによって。

殆どの人にとって浅羽がミステリー・サークルを作る意味を理解出来ない。『イリヤの空、UFOの夏』においても、もう一人のヒロインである須藤晶穂は浅羽の行動を理解できないことが描写されている。もはや浅羽は伊里野との恋愛関係を構築したセカイが確かにあったと自らに宣言することしか出来ないのだ。それも誰かに理解を求めることも出来ない為に、儀礼的とも言えるミステリー・サークルを作り上げるという行為で。

笠井潔氏の「セカイ系における(略)セカイは、現実的な日常空間でも妄想的な戦闘空間でもない。前者に属する無力な消炎と後者に属する陰惨化した戦闘美少女が接触し、キミとボクの恋愛空間が生じる第三の領域がセカイなのだ(『ライトノベル研究所説』,p149)」という指摘は正しい。ただそのセカイ(恋愛関係)は常に社会からの侵略を受け、崩壊する不安定性を内包している。だからこそ浅羽はミステリー・サークルをつくることによって、セカイが社会からより遠くにあることを夢見たと指摘出来る。

イリヤの空、UFOの夏』から、セカイ系において恋愛は夢見ることは出来ても、成就することが不可能になったことが分かった。恋愛の不可能性は日常と非日常との往還によって新たに発生したセカイが、社会による要請によって容易く破壊されることによってもたらされる。その破壊から逃れる為に、もはや手遅れだと分かっていても浅羽は恋愛関係の擬似的な成就として儀礼的にセカイを社会から切り離そうとしたことが読み取れた。次章の『青春の肥大化について』ではライトノベルにおいて社会からセカイの切り離しがどのように行われたかを検証する。

3.青春の肥大化について

青春という現実は誰にとっても存在しない。

現に青春を生きている者にその自覚はない。状況に対する無知、青春に生きている現実を理解しえぬことこそが、青春の要件である。その一方、青春を対象化して語る者は、すでにそれから疎外されている。

(『青春のディストピア』,p32)

松里末理氏が指摘した青春の要件は重要である。『涼宮ハルヒの憂鬱』では、ヒロインである涼宮ハルヒの青春に対する鬱屈が直截に表現される。宇野常寛氏は鬱屈をイソップの寓話にたとえ「酸っぱい葡萄」的な構造と指摘する。しかし松里末理氏が指摘した青春の要件から考えると別の構造が浮かび上がる。涼宮ハルヒは青春を過ごすはずの学校に属し、学園生活を営んでいる。にも関わらず青春を対象化して語っている。

それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でもそうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなのどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの回りの世界が色あせたみたいに感じた

(『涼宮ハルヒの憂鬱』,p225-226

つまり涼宮ハルヒは自らの青春とその他の普通の青春とを相対化せざるを得ない状態にあると言える。それはすでに青春から疎外されていることを意味しないだろうか。

松里末理氏は米澤穂信氏の作品を例にとり青春を以下のように分析する。

米澤作品の主人公には、自分で道を決められないも者が多い。彼らは常に外部を持っている。確かにそれは「未熟」かもしれない。しかし未熟であるからこそ成熟へのポテンシャルが開けているというのもまた、論理的な関係性である。未熟でなければ成熟することもない。

(『青春のディストピア』,p42)

論理的な関係性と表現された外部への参照はライトノベルにおいては機能することが困難になっている。それは『イリヤの空、UFOの夏』で読み取ったようにセカイを社会から切り離すのではなく、参照する理想的なモデルを否定するという行為を限られたメンバで共有するという儀礼的な振る舞いによって実現している。このような青春、もしくは青春の代表的な経験である恋愛体験を否定するライトノベルの代表に『僕は友達が少ない』がある。

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僕は友達が少ない』は、自分には友達がいないと信じている主人公長谷川小鷹らが、「隣人部」なる部活をつくり、部活動と称して友達づくりの練習をする日々を描いたライトノベルである。『僕は友達が少ない』の特徴を良野通氏は以下のように纏める。

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小鷹たちと読者との世界には差異がある。例えば、隣人部のメンバーは昼休みに一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行く。そして間違いなく、その活動を楽しんでいる。読者の立場から見れば、小鷹たちは友達だと躊躇せずに言えるかもしれない。だが、登場人物たちはみな、自分には友達がいないと主張する。このズレは「友達が少ない」という作品外の規定と「友達がいない」という作品内の規定との齟齬によって、自覚的に示されたものと考えられるのである。

(『ライトノベルスタディーズ』,p.235)

そもそも学校は社会を学ぶという目的の為に、社会から隔離される場と指摘出来る。隔離された場として機能するには社会とは異なったルールで動くことが必要となる。その明文化されないルールの束こそを、青春を営む条件であるとも言える。一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行く。それらの1つ1つは青春として明文化はされていないが、外部から青春を対象化して語るときにはそれらの行為を青春と総括する。

対象化されたと自覚しなければならない状態にもし長谷川小鷹は青春が色褪せることを望むだろうか。望まないだろう。また望む望まないを問わず、学校の隔離はうまく機能していない為、いたるところに穴が空いている。多孔化した学校は社会から様々な経路で、理想的な青春の過ごし方を押し付けられる。『イリヤの空、UFOの夏』で読み解いたように日常は容易く揺さぶられる。長谷川小鷹らは外部への参照を避けて、隔離という機能のみを機能させるかを戦術的に選択する。良野通氏は長谷川小鷹の戦術を以下のように纏める。

したがって隣人部での活動は、それが小鷹たちにとって「本当の友達」に相当する関係だから楽しいのでなく、そうではないからこそ楽しいのだ。理念的な「本当の友達」が常に存在を否定され続けているからこそ、彼らは安心できる。隣人部の面々は、自分たちには「友達がいない」と前提することによって生み出した、「友達がいない」と前提することによって生み出した、「友達」という空虚な言葉に形を与えないよう戯れている。言うならば、虚構の世界を生きているのである。(中略)理想は、「こうである」という肯定の形ではなく、「こうではないもの」という形をとることになったのである。

(『ライトノベルスタディーズ』,p.243)

良野通氏が指摘した通り、隣人部の活動はそもそも、友達付き合いの練習をする部活動である以上、本物ではないという留保がついている。その為、何をやっても本物ではないと否定することが許される。理想を否定するのは簡単である。全体を見渡すことのない曖昧な青春という状態を肯定するよりも、個々の一緒に弁当を食べ、ゲームをし、漫画を読み、一緒に帰宅し、旅行に行き、互いの家に遊びに行くという個々の場面を実践し、隣人部の活動では出来ないと結論付ける方が容易く実現可能だからだ。

長谷川小鷹らは参照する/提供されるというモデル自体を否定するのではなく、モデルを構成する1つ1つの事例に対して実現不可能だと否定した。参照する/提供されるという不可避な社会構造を否定するのではなく、“理想的な青春”を1つのモデルとして形付けさないことを実現し、社会からの不干渉を成立させた。結果、長谷川小鷹らは社会から心理的に離れた自分達のセカイを成立させることに成功した。

長谷川小鷹らは参照する理想に対して否定することによって、¬(理想的な青春)の共有を可能にした。しかしこの¬(理想的な青春)の共有には1つの大きな問題がある。

理想的なモデルには、理想の自己像を参照させ、またより適正化させようとする内発的な(自律的な)力があるという単純な事実に発する問題だ。

長谷川小鷹らは理想的だと自らが思う青春イベントを行う。自らの体験によって理想的な青春を成立しようとする。だが自らが体験した青春イベントを理想的な青春だと判断する基準が長谷川小鷹らには欠如している。否定が主要な手段であるセカイでは、相対化する手段を持たないからだ。相対化するには複数の理想的な青春候補として留保する必要があるが、¬(理想的な青春)の共有によって成立したセカイではそもそも理想的な青春が1つでも具体的な形を形付けることを拒否する。その結果、自らが思い描く理想的な青春を修正することに失敗する。理想的な青春と実現可能な青春のバランスを欠いた長谷川小鷹らは理想的なモデルを過激化させ、自らを肯定する体験を減らしていく。そして徐々に自らの体験を否定することでしか、理想的なモデルを維持出来なくなる。つまり活動の空虚化であり、究極的には自己の放棄に繋がいく。

自縄自縛しなければ自らを肯定出来ないセカイで生きることは辛い。しかし¬でのみ外部を参照していたセカイでは相対化する力はない。そして空虚化した活動は、最終的には理想的なモデルも空虚化する。

長谷川小鷹らは自らが所属するセカイを否定し、排除された個として生きることになる。排除された個はセカイを否定するだけで、セカイから別のセカイに移動することや、そのセカイを支える社会に興味を移すことを期待することは出来ない。

完結した『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』シリーズ最終巻では上記にて指摘した¬(理想的な青春)の脆弱性が露わになっていることを指摘出来る。

主人公の高坂京介は、過去の経験によって普通の人生を志向する高校生であり、スポーツ万能で雑誌モデルをしている中学生の妹である高坂桐乃がヒロインになる。幼い頃は仲が良かったが、今ではまともに挨拶もされない関係になっていた。しかし「人生相談」と称してオタクであることを高坂京介にカミングアウトすることを通じて、徐々に交流を深めていく。

シリーズの前半部では高坂桐乃との交流が深まる(シスコンになる)につれ、周囲に居た幼馴染田村麻奈実との関係の変化や、高坂桐乃の友人である黒猫との恋愛関係が強調された。しかし後半部になると高坂京介と高坂桐乃は「人生相談」という名の疑似恋愛経験を通じて、徐々に禁断の愛に目覚め、最終的に高坂京介と高坂桐乃が結ばれる。

最終的に兄妹が結ばれるまでに高坂桐乃の友人であり、かつ高坂京介に告白していた新垣あやせ、来栖加奈子、黒猫を振ることになる。客観的に見れば大恋愛の末に結ばれた二人であったが、期間限定恋人という通常の恋愛を否定した状態での成就であった。

クリスマスの日――俺たちは『約束』を交わした。

 

――卒業まで、二人は期間限定の恋人になる。

――卒業したら、二人は普通の恋人に戻る。

 

好き合っている兄妹の、それが現実的な落としどころだった。

(『俺の妹がこんなに可愛いわけがない ⑫,p.366)

このエンディングは賛否両論を招いた。そもそも現実的な落としどころはそもそも兄妹で付き合わないことである。そして高坂桐乃に対して優しくするセカイに生きている新垣あやせ、来栖加奈子、黒猫の告白を保留することでもなかった。シスコンという恋愛においてマイナスになる要素を持ったがゆえに知り合うことが出来た新垣あやせ、来栖加奈子、黒猫が高坂京介によって振られるというのは自明だったはずだからだ。シスコンは理想的な恋愛によっては許容され難い要素であると高坂京介が自認しているからだ。

どんなにその他のヒロインが高坂京介と恋愛イベントを重ねようとも、京介がシスコンであるという恋愛に対する否定的な前提において、桐乃以外は無化される。

また高坂桐乃に対して優しくするセカイでは、セカイに過剰に適応した恋愛によって通常の恋愛関係が侵入することを拒む。

ゴスッ! と、麻奈実の拳が桐乃の腹にめり込んだのだ。

(『俺の妹がこんなに可愛いわけがない ⑫』,p.342)

だからこそ幼馴染であり、幼い頃から高坂京介を慕っていた田村麻奈実は、高坂桐乃という変えられない存在に暴力を振るったのである。

4.以下性という希望

第2章では『イリヤの空、UFOの夏』において、セカイを社会から切り離す夢が描かれていることを指摘した。また第3章では『僕は友達が少ない』から社会の切り離しが学校という場の社会からの隔離という機能を戦術的に使用し、外部の侵入を否定することを指摘した。そしてその戦術的な選択によって通常の青春(恋愛は青春につきものだ)の実施可能性を否認していることが分かった。また『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』から主人公が通常の恋愛の実施可能性を否認した結果、歪な形での恋愛が成就すること読み取れた。ライトノベルにおいて総体としての青春=恋愛を肯定することは難しい。“恋愛の不可能性を前提にした恋愛”はライトノベルという歴史がもつ宿痾であるからだ。そしてまた理想的なモデルを説明する1つ1つの事例に対して実現不可能だと否定することによって虚構的な共同体意識を持つという機能が動作していることが分かった。これらのライトノベルの極端化されたテーマはそれなりに強度と論理を持ち、ライトノベル全体を通底している。

しかし根本的な疑問としてこの虚構的なセカイを全否定する必要があるだろうか。この疑問はクィア理論の先駆者であるレオ・ベルサーニの「社交性とハッテン」という2002年の論文にて指摘された「以下性lessnes」という概念を織り込んだ社交性(欲望可能性)で解決される。

社交性(友達とのちょっとした会話とか、会社でのやりとりなどを思い浮かべてほしい)とは、自分の実存をまるごと賭けることではない。むしろ自分のいくつかの部分のみで、自分を「控えめless」にして、自分の「以下性lessness」を駆使してつきあうことである。個々の実存まるごとをホットに社会全体の目的へ直結させることがファシズム的であるとすれば、自分を「以下」にすること、それぞれの程々の「ひきこもりwithdrawal」にもとづく社交性のクールさはファシズムに対する防波堤であり、かつ、場合によってはファシズムへ熟していくかもしれない関係の初めの温度である。この意味で社交性とは、あらゆる関係の可能性の条件、どうでもよさの条件であり、それが(内面なしの)身体と身体のアドホックな黙約において露わにされるのが「ハッテン場」という社会の影なのだ。

(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.394引用)

主体は主体そのものを他者に提供することによって社交性を勝ち得るのではなく、以下性によって保証されるバリアントでありかつ分離した複数性によって社交性を確保する。

このような多様性に極めて自覚的に作成されたライトノベルが『人類は衰退しました』である。『人類は衰退しました』に登場する新人類である妖精さんは魔法によって容易く人や動物、物質の立ち位置を入れ替える。このような妖精さんが存在する世界を以下のように表現する。

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今の世界は、勘違いのもとで成立している。知らぬままでいれば、我々は心におさまりきれないものを外に放ち続け、様々なものを命の定義に引き上げ続けるだろう。それがこの世界を豊かで、おもしろおかしいものにすると私は信じる。多様性の暴力を私は信じる。おまえはどうだ?

(『人類は衰退しました 9』 p.280)

ライトノベルにおいて現実が否定されるのは仕方がない。そして自分をまるで物のような次元に落とそうとする運動に対抗することも難しい。それは一定の強度と論理を持って存在しているからだ。しかしその一方で自発的に自己の放棄をする選択を、「以下性lessness」という自ら全体として把握不可能な部分になることで、新たな社交性を獲得することによって逃れる手段も提示されたと私は考える。

人類は衰退しました』は非常にライトで誰でも読め、極めて時間に対してコストが良いシリーズである。だからこそ、提案する。田中ロミオ氏が提案した新たなライトノベルの可能性である『人類は衰退しました』を是非、手に取ってほしい。そこにはセカイ系から発したが故にリアリティとは無縁でありながら、豊潤なセカイが存在している。

『日本2.0 思想地図β vol.3』批評①、千葉雅也氏著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−「クールジャパノロジー」と倒錯の強い定義」批評、ネタバレ有り

2012/7/17に発売された東浩紀氏著・編集の『日本2.0 思想地図β vol.3』を読了した。

収録された論文の方向性が多様性に富むので、総括して評するのは出来ないと思い、愚直に一つずつ感想もしくは批評していきたいと思う。常であれば掲載順に感想を記載するのだが、あまりに内容が膨大かつ内容によってモチベーションが上下するので、今回は思い思いの順番でブログを更新していこうと思う。
最初に取り上げたいのは千葉雅也氏著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−「クールジャパノロジー」と倒錯の強い定義」(以下、あなたにギャル男を愛していないとは言わせないと略す。しかし略しても長い)である。
挑発的な題名でありながらも、オタクに対して丁寧にギャル男の性質を紹介しつつ、独自の方法(=ギャル男とオタクの比較)を通じて、クールジャパノロジーに共通する倒錯を模索しているこの論文は読んでいて、非常にエキサイトした(個人的にやる夫とギャル夫の関係が最初に脳裏に浮かんだ)。
だからこそこの論文を最初に取り上げたいと思った。
千葉雅也氏に注目したのは2010/1/26前後であると記憶している。
その頃、卒業論文の参考になればと國分功一郎氏ついて調べていた際に、『アンチ・オイディプス草稿』を國分功一郎氏と千葉雅也氏が共訳をしていることに気付いた。過分にして千葉雅也氏という名前を知らなかったので、webで調べたところ当時は氏の論文が幾つか載っていて、「動き過ぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと節約」だったかを読んだ覚えがある(曖昧な記憶を頼りにしているので間違っている可能性もあり)。
その論文が面白くて、チェックするのを初めた気がする。
あとそろそろ博士論文を書籍化して欲しいなぁと思い続けている(個人的にドゥルーズ研究者の檜垣立哉氏の『ヴィータ・テクニカ 生命と技術の哲学』とどちらの出版が早いかという意味の分からない競争を脳内でさせていたが、まさか檜垣立哉氏が圧勝するとは思っていなかった。陰謀を感じる)。以下、批評に移る。

  • 批評1:僕はギャル男を愛せない

まず最初に千葉雅也氏の”あなたにギャル男を愛していないとは言わせない”という強い意思表明に対して応答しないとフェアではない。
だから敢えて結論だけを先に記載するが”僕はギャル男を愛せない”。
僕は現実にギャル男に類する男性に出会ったことがないので、具体的な体験を通じてギャル夫を愛せなくなった訳でもない。
千葉雅也氏のギャル男に対する評論については反論する所が見当たらないが、心情的に愛せない訳でもない。
千葉雅也氏の論文の内容を検討した結果、オタクがギャル夫を愛していないと言わせない論旨に対して反論可能であり、その反論に基づき”僕はギャル夫を愛せない”と主張しようと思う。
以下に千葉雅也氏の論文の概略を私個人の解釈を通じながらであるが(ここに問題があるのかもしれないが)、記載していく。

  • 批評2:あなたにギャル男を愛していないとは言わせない検証

「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」の論文の概要を誤解を恐れずに簡単に纏めると、クールジャパノロジーとして括られるオタクとギャル男は表現方法の異なるだけのパラレルな存在であり、双方とも同様なプロセスにて異性愛-規範的(千葉雅也氏に沿って記載するのであれば生殖規範的)からの逸脱を図る存在である。その為、オタクがギャル男を嫌悪するのは装飾が異なるだけの自分=パラレルな自分を否定することに他ならない為、愛していないとは言わせないという趣旨になると思う。
この簡単な纏めを読むだけだと、一番単純な批判として自己嫌悪的な否定があると言えるかもしれないが、それは今回の私の批評の趣旨に外れるので今回は取り扱わない。
では詳しく検証していきたいと思う。
千葉雅也氏はギャル男から導かれる問題を以下のようにまず纏める。

ところが、まさしくそこでたむろしているだけで、ただちに、あらゆる問いつめはなかったことになってしまう−そのようなどうでもよく−なる(原文傍点)こと(becaming-trivial or-careless)、独特の、揮発する否定性への問いこそが、ギャル男的なる気配から抽象される問いではあるまいか。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.379引用)

この否定性への問いは後々にオタクとの共通する要素として検討が具体的になされていくが、まずはギャル男の発生の経緯とその特異性について氏は言及する。
ギャル男の発生の経緯として、ギャル男の前身である”ヤマンバ”の特異性を説明する。

そもそもコギャルから展開した「ヤマンバ」の段階で、彼女らは、男性による憧れ――の眼差しへの従属化――を哄笑しつつ遮断する一種の「分離主義」の勢いさえ感じさせる怪奇的な「女性による女装」を激化させていた。(中略)そうした(男性によって憧れられ=貶される女性らしさから)分離して−女装する女性(以下略)
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.380-P.381引用)

ギャル男は分離して−女装する女性への生成変化へ踏み出す。
ただし氏は男性による女装は憧れるステレオタイプな女性イメージへの同一化に過ぎないが、ギャル男というスタイルは女装ではなくむしろ女性の分身になることを企図している留意しつつ、ギャル系の戦略とそれに応答するギャル男の戦略以下のように解説する。
・ギャル系の戦略

ギャル男という影を派生させることでギャル文化は、ジェンダー二元性の摩耗を、女から男への/男から女への「分身double」たちのゲームへと軽めるなかで、男でも女でもどうでもよく−なるという革命的な「乱交性promiscuity」を――潜在的な――テーマとして拡散してきた。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.380引用)

・ギャル男の戦略

分離して−女装する女性への「生成変化becoming」に踏み出したギャル男は、半面では、彼女らを保守的な恋愛に組み込もうと「釣り」を仕掛けながらもう半面では、彼女らの――「レズビアンフェミニスト」的でさえあるかもしれぬ――分離にしたがって自らを骨抜きにしてしまいかねない。ここに、ギャル男のどうでもよさの中心(center of carelessness)がある
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.381引用)

ギャル文化は男性の眼差しへの従属から抜け出す方法として、女装的な女性としてのギャルを確立していった。つまり規範的な女性ではないという主張を通じて、男性との関連性を一度断ち切ることを試みたと解釈する。
しかし一部の男性はその試みに対してまた規範的な女性になることをギャルに強制するのではなく、自らが女装的な女性に生成変化することでギャル同士の閉じた関係性に再度、規範的な男女関係を持ち込もうとしたのかもしれない(かもしれないに留めるのは男性側からの乱交性への素直な憧れという可能性も否定出来ないからである)。その結果、ギャル男はギャルとの関係性を取り戻すことに成功はしたが、規範的な男女関係の成立に対する危うさも内包してしまった。
それがギャル男のどうでもよさの中心(center of carelessness)という氏の指摘なのだと理解する。
では如何なファッションにしてギャル男はギャル化していくのか。氏はそのマークを髪に見出していている。氏によればギャル男の髪型は「ミディアムウルフ」をの基本形とし、よく「梳き」を入れたギザギザでスカスカした毛束を「盛る」スタイルらしい。本当にそうかは検証する手段も根性もないのでこれを鵜呑みにする。氏はこの「梳き」の技術的洗練を、極端に言えば身体を梳いたヘアと化すギャル男達の欲望と解釈し、その身体のヘア化を以下のように定義する。

身体のヘア化としての虚構化、キャラクター化。そのどちらでもよさの中心、どうでもよさのどうでもよくなさ(原文傍点)を、私としてはふざけていると見なされても構わない――それ自体がもちろん意図的にヘア化された――概念として、身体の「頭空っぽ性(airheadness)と呼ぼう。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.383引用)

このような身体のヘア化による虚構化をオタク文化の一つである「コスプレ」との共鳴と見て、双方にキャラクター化への願望を見出す。
本筋にはあまり関係ないが、ギャル系のガングロから美白化への移行を刺青のようなスティグマが反転して、透明化した刺青になったという指摘を氏がしていたが、個人的には鷲田清一氏の感覚の透明ラップ化(この概念は鷲田清一氏ではネガティブに使用されていたが、逆転させて使用する)を迂回した方がすっきりする。

そもそもギャル系は戦略として男性との従属的な関係への拒絶を表明する為の手段としてガングロを選択したが、ギャル文化が浸透するにつれてわざわざコストの高いガングロを共有してまで表明する必要がなくなってしまったのではと推測する。
またガングロによって達成した社会的透明さが皮肉にもガングロというマークによって阻害され始めた結果、どのようなキャラクターにもなりうる手段として透明ラップ化=美白化に到達したのではないだろうか。身軽さを信条とするギャル系文化がスティグマを積極的に相手に課すとは思えない。むしろ透明ラップ化をポジティブに反転させ、多様なキャラクターを投影できるプラスティック的な皮膚(=スキン)を戦術として獲得したと見たほうが私には納得できる。
話を本筋に戻そう。氏は提示したギャル男の頭空っぽ性とオタクの性質の共通点を「男の娘」、「やおい」的なカップリングの想像力(キャラクターの関係性のリセット/設定)を具体的な例として挙げ、補強し、オタク系の倒錯性の可能性の中心と、ギャル系の乱交性のどうてもよさの中心は一致すると氏は判断する。私もここには同意する。キャラクターの関係性のリセット/設定、男性からの擬-異性愛と準同性愛の同居等がギャル系の性質と一致していると判断しても良い。
また氏はこのようなオタク系とギャル系の共通性が生じた要因を宮台真司氏を援用して説明する。私は宮台真司氏の著作すら知らないので、どうしても鵜呑みになってしまうが、そこは諦めている。

宮台真司によれば、七〇年代以降の日本の「サブカルチャー」は、社会のリアルな摩擦(階級対立、差別など)から自分たちを「無関係化」するものとして機能するようになったとされる。
宮台によれば、一方の「オタク系」による「虚構の現実化」、そして他方、後のギャル系へとつながる「ナンパ系」の「現実の虚構化」という対照的な戦略はいずれも「自己のホメオタシスを調達する機能において等価」であったという。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.385引用)

「自己のホメオタシスを調達する機能において等価」という意味合いがこれまでの文脈からでは読み取れないので、一旦放置して置く。自己を動的安定化させる機能が一緒ぐらいに捉えておく。
千葉雅也氏は二つのギャル系、オタク系という島宇宙に対して寄せられた、九〇年台年代末の宮台真司氏によるコギャル擁護、東浩紀氏による男性オタク擁護は、非-神経症的な「別のしかたでの欲望」に乗ろうとした行いとする。
ではそもそも神経症的な欲望とは何かをジャック・ラカンを経由して説明する。

精神症の欲望とは、どのようなものか。神経症の欲望は対象の現れへの自分の関心が、他者との間主観的なネットワークにおいて理由づけられていることにもとづく。「このラーメンを食いたい」であれ「この相手とセックスしたい」であれ、当座そのように欲望する理由は、「他者の欲望」すなわち、その他者が「欠如」を満たそうとすることに、そして「その他者の欲望するさらに別の他者の欲望」に・・・・・・よって理由づけられているということである。こうした、欠如を媒介した他者の欲望の運動が、欲望とは「他者の欲望を欲望すること」であるというジャック・ラカンの形式であり、
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.386引用)

引用部分が長いのでここで一旦中断して、整理していおこう。個人的にジャック・ラカンは意味が分からないので、欲望とは隣接する配列=他者の欠如を埋めるために無限に配列同士の隣接交換を再帰アルゴリズムにて実装しているものであると理解する。
この説を信じると人間は自分を含めて全てを他者と見ることを出来ないので、隣接した他者しか見えない主体が自ら欲望していると錯覚しているとなるのかなぁ。続き。

そしてラカン派の精神分析においては、概して、他者の連動によってその究極の純粋な理由(本文傍点)とは、ものごとを象徴的に分節化できる可能性(つまり言語能力としての理性)の限界としての「性差」(男/女を分ける妥協なきスラッシュ)が現実に――異性間で生殖するしかなかったこれまでの私たち人間によって経験される限りでのこの世界には――刻まれてしまっていることである。以下では、この性差の存在について「性別化というリアル the Real as Sexuation」と表現することにしよう
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.386引用)

”異性間で生殖するしかなかったこれまでの私たち”は近代的「大きな物語」の崩壊に伴い、神経症の欲望をしだいに弱体化させていく。それは他者の欲望の運動は、巨視的には。社会の「大きな物語」の中心エージェントによって、集約されていたが、それの知っつによって神経症の欲望は小さな物語=島宇宙でストップするか、あるいは有限化される。その結果、”異性間で生殖するしかなかったこれまでの私たち”=異性愛-規範的な恋愛は「別のしかたでの欲望」への移行に着手し始める。
「別のしかたでの欲望」の先例として千葉雅也氏はドゥルーズの見方、精神病と倒錯の奇妙なオーバーダブとして捉える立場を紹介する。ドゥルーズガタリの欲望解釈は、あらゆる存在者は多種多様の「欲望する諸機械」のコラージュとして機能しているとしている。これは千葉雅也氏の解釈を通すと以下の二つになる。

それらの理由づけが多方向に発散している、多方向においてどうでもよくなっている複数の欲望である(原文傍点)。言い換えるならば、それらは、間主観的な因果性から「切断」された複数の欲望である。あらゆる存在者はそれら「欲望する諸機械」の一定のまとまりである。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.387-388引用)

欲望の間主観的な因果性を「否認」して勝手に享受する個体性の肯定であると解釈できるだろう。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.388引用)

纏めると以下のようになると私は解釈している。あらゆる存在者は多種多様の「欲望する諸機械」のコラージュであるが、特定の間主観的な因果性を切断すること≒多方面にどうでもよくなることによって、再構築した「欲望する諸機械」を通じて、勝手に都合の良い欲望の間主観的な因果性を享受する個体性となるのだろう。
千葉雅也氏は欲望のしかたの形式について、ラカン派では三つの構造にて区別していることを紹介する。以下まとめて記載する。
神経症:究極的には「性別化というリアル」の根源的な分からなさに関わる欠如の関わる記憶の絡まりの一部を「抑圧Verdrangung」しておく
・精神病:神経症的な記憶の絡まりの一部を「排除Verwerfung]してしまっており、あるとき排除されたそれが「回帰」すると、精神病的な主体は「性別化というリアル」に――世界の究極の真理のような何事かとして――直面することになる。
・倒錯:いったん「性別化というリアル」の訳の分からなさを「否認verleugnung」しておくのだが、それは、何らかのイメージによって「性別化というリアル」の周りを隠蔽しておくことでそうする。
千葉雅也氏によるとドゥルーズの目論見とは私たちを「性別化というリアル」の訳の分からなさとの闘いから逃がすことにあるらしい。

それゆえ、彼らの理想化する分裂症者は、「性別化というリアル」の訳の分からなさを初めから排除しているというよりむしろ、排除しているかのように(原文傍点)逃げ続けているのだと思われるのであり、仮にそうだとすると、この「かのよう」という偽装性は、つまり「否認」的であると解釈できるように思われるのである。これはいわば「否認的な排除」を示している。ドゥルーズガタリの狙うはそれゆえに「倒錯的な精神病」という折衷案であったことにならないだろうか。ここでは、そう考えることを暫定的に提議しておきたい。「倒錯的な精神病」としての「性別化というリアル」をめぐる「否認的な排除」の身ぶり
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.388引用)

ではクールジャパノロジーの欲望は日本においてどのように解釈されていたか千葉雅也氏は三つの分類を提示する。その分類の仕方は以下のように行なっている。

クールジャパノロジーの欲望は、神経症の欲望と「別のしかたでの欲望」を並立させる二枚舌になっている。これまで問題とされてきたのは、そうした二枚舌のバランスを前者に寄せるか/後者に寄せるかであった。そのパターンを次の三つに分けてみる。(a)「別のしかたでの欲望」を、まったく精神分析的ではない「動物的」な「欲求besoin」へと振り切れさせる(東浩紀の場合)。(b)「別のしかたでの欲望」は、要するに倒錯的であると見るが。あくまで神経症の欲望をベースとして、多かれ少なかれの倒錯化を認める,(c)「別のしかたでの欲望」を、肯定するべき「分裂症」の解放と見なす(ありがちなドゥルーズガタリ主義)。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.389引用)

千葉雅也氏はオタク系、ギャル系から考察してきたクールジャパノロジーの欲望とはこの中の(a)と改変された(b')とを倒錯化=否認的な排除した(C')を介して縫合することによって見出すことが出来ると指摘する。

そこで今回、私から提起したいのは、(b)から神経症への錨をカットしてしまい、そのように故障させられた(原作傍点)「精神分析主義」としての(b')と、強く「非-精神分析主義」であろうとする東の(a)を先の考察によって倒錯化された(C')を介して縫合することである。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.389引用)

ここが今回の議論のクリティカルな部分になるので丁寧に読んでいく。
まずは如何にして(C')が(a)と(b')をつなぐ役割を果たすかを確認していく。

どういうことになるか。「性別化というリアル」を知りながら否認する倒錯の、その否認をきわめて誇張するならば、ついに倒錯は神経症(とその対極の精神病)をベースとする古典的な精神分析の有効性そのものを、知りながら否認する立場として再定義されるだろう。(中略)もっと強調して言おう。「精神分析の圏内」における狭義の否認と、精神分析それ自体についての否認、そうして開かれる「精神分析の圏外」とをショートサーキットすること。これが、精神分析セントラルドグマである「性別化というリアル」を否認的に排除することであり、このことをもって、ポスト神経症の時代の半殺しになった精神分析とその圏外とを股にかける「倒錯の強い定義」としよう。「倒錯の強い定義」は、精神分析それ自体に対しるメタ倒錯と呼ばれてもよいだろう。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.389-390引用)

なるほど。精神分析それ自体についての否認の結果、現れる「精神分析の圏外」であるが、「倒錯の強い定義」においては精神分析それ自体についての否認を欲望主体は認識する必要がなく、結果として現れた「精神分析の圏外」のみを認識している。関数の呼び出しみたいなものと理解すればいいと思う。倒錯の強い定義というプログラム内では、関数化された”精神分析それ自体についての否認”引数に「精神分析の圏内」における狭義の否認=FALSEを与えた場合にのみ、結果として精神分析の圏外がアウトプットされると理解してもいい気がする。このような新たな定義をもって、千葉雅也氏は東浩紀氏の『動物化するポストモダン』にて展開されたオタク擁護の主要な概念である”動物化”について再解釈を始める。

東氏の”動物化”の概念について、千葉雅也氏は三つの論点を敢えて癒着させていると指摘し、それぞれの論点を分析していく。

(1)非-精神分析主義:まず、動物化とは、欲望の間主観的な因果性からの分離である。(2)認知的習慣化:そして動物化とは、特定の対象の認知を反復する/させることにより、対象への中毒的なこだわり(アディクション)に陥ることである。(3)異性愛-生殖規範性:(少なくとも男性オタクにおいて)結局のところ、動物化とは、人間の自然=本性としての異性間での生殖と不可分の異性愛規範性、すなわち「異性愛-生殖規範性」のしぶとい存続の再認に他ならないのである。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.391引用)

東氏の”動物化”は無理なく上記の3つの論点を連動させることによって、”萌え”=「倒錯の強い定義」を確立させ、実在に対して「ケア」(配慮)のない――非-精神分析的な倒錯であり、かつ異性愛-生殖規範的である精神分析的な倒錯を並列させたと指摘しているのだと思う。しかし千葉雅也氏はギャル男的な現状から(1),(2)の上限の過激化した結果、(3)が並立が困難になるバージョンの解釈を提示する。

これまでの「異性愛-生殖規範性」は、これまでの社会の再生産のための制度的構築の一つであって、ゆえにそれは、異性間での生殖が減ってもよい、ないし同性感での生殖や、人間以外の存在者との生殖をしてもよい社会になりうるならば――さらには、極言して人間の絶滅を、全体でなくとも部分的なそれをやむなしとした上でそれでも、最善ではなく次善の共生の存続を求める社会になれば、いや、そういう社会がありうると想定するだけで(潜在的には)――解体されるだろう。
 それゆえに、男性オタクの「保守的ナセクシュアリティ」は、これまでそうであった一面の事実であるに過ぎない。この一面の事実であるにすぎない「異性愛-生殖規範性」を依然として特別のインフラとしている「非―精神分析的な倒錯」のみを検討することは、いわば「これまでの人間-主義」であるにすぎない。対して本稿では、男女のギャル系の身体の虚構化、そしてオタクの潜在的なギャル化をそのアレゴリーとする「非-精神分析的な倒錯」の激化に即し、社会の再生産=生殖のインフラまでもが異なった複数の経路へ「解離」される可能性、これは否定できないというアーギュメントを提起したいと思う。これは、複数の別のしかたで再生産したりしなかったりすることによる社会の存続の多孔化であり、さらに言えば、人間の時間の多孔化である。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.392引用)

この異なるバージョンの”動物化”に対する問題提起に従い、千葉雅也氏は”動物化”を以下の二つに分類する。
異性愛-生殖規範的な動物化:「異性愛-生殖規範性」への固着しつつ動物化すること
「進化的な動物化」or「クィア動物化:自然=本性のレベルでも作動し、社会の持続を多孔化してしまう動物化
そして千葉雅也氏は『動物化するポストモダン』の最も危うい可能性として、(2)の認知的習慣化による「進化的な動物化」or「クィア動物化」の倒錯のエンハンスメントを思弁しかねない点だと指摘する。倒錯のエンハンスメントを思弁と言われても良く分からないので、個々の関係性の拡大によって複数の別のしかたの欲望の経路を保持するのではなく、拡大していく関係性と捉えるのではなく、あくまで目の前にある事物として即物的に反射的に欲望を消費すると、小さな島宇宙すら形成出来ないと言ってんのかなぁと解釈する。これまでのギャル系について千葉雅也氏は以下のように簡潔に纏める。

ギャルとギャル男、ギャルとギャル、ギャル男とギャル男は、分離して-女装する女性への生成変化によって互いに分身となるのだから、欠けている何かを補い合うのではなく、ひたすら重なったズレたりするのみであろう。一方で、おそらく神経症の圏域があって、彼女/彼らの「チャラ打ち」(=乱交)は、異性愛規範性・同性愛嫌悪・男性中心性によって支配されているかのよう(原文傍点)である。しかし他方で、その「かのよう」を作動させているのは、強い倒錯としての「クィア動物化」ないし「進化的な動物化」を潜在的に被りつつある彼女/彼らの分身性、すなわち「性別化というリアル」をめぐる懊悩を「否認的に排除」してどうでもよくなっていく、彼女/彼らの分身性に他ならない。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.393引用)

またクィア理論の先駆者であるレオ・ベルサーニの「社交性とハッテン」という2002年の論文より「以下性lessnes」という概念を織り込んだ社交性(欲望可能性)を紹介している。個人的にこのような発想は思いもつかなかったので、勉強になったのでちょっと引用させて頂く。

社交性(友達とのちょっとした会話とか、会社でのやりとりなどを思い浮かべてほしい)とは、自分の実存をまるごと賭けることではない。むしろ自分のいくつかの部分のみで、自分を「控えめless」にして、自分の「以下性lessness」を駆使してつきあうことである。個々の実存まるごとをホット(原文傍点)に社会全体の目的へ直結させることがファシズム的であるとすれば、自分を「以下」にすること、それぞれの程々の「ひきこもりwithdrawal」にもとづく社交性のクールさ(原文傍点)はファシズムに対する防波堤であり、かつ、場合によってはファシズムへ熟していくかもしれない関係の初めの温度である。この意味で社交性とは、あらゆる関係の可能性の条件、どうでもよさの条件であり、それが(内面なしの)身体と身体のアドホックな黙約において露わにされるのが「ハッテン場」という社会の影なのだ。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.394引用)

主体は主体そのものを他者に提供することによって社交性を勝ち得ているにではなく、以下性によって保証されるバリアントでありかつ分離した複数性によって無数の準主体とも言うべきものが他の主体の準主体とぶつかることによって社交性を手に入れているのかなぁと思ってみる。学生時代にミッシェル・フーコーにおける主体-主体の関係ってアラン・パディウの「偶然性唯物論」の影響を受けつつも、全てを偶然性に任せるのではなく特定の場に対してゲームルールを設定することで偏りのある=準主体の多様性を制限しつつ意図的にぶつかるようにして交流を効率化させるモデルだったんだじゃないかなぁということを思い出した。だからフーコーは主体→客体→主体というモデルを採用せず、(主体→準主体→(コリジョン)←準主体←主体)=ゲームの場というモデルを採用したと主張したのを試みた覚えがある。推測に推測を重ねたのでどうしようもなかったけど。まぁ、パディウが原子と原子の主体-主体関係の基礎を”転記”に見出したのに対して、フーコーが戦争的-政治的言説の生成の基礎に”転記”を見出していたからなんですけどね。
話を本筋に戻す。社交性の快楽は以下性同士がぶつかること=事物へと向かう/から離れるという絶えまない動きの誘惑性であり、そのような動きこそがものごとに対する特定の欲望を基礎として支える。
ギャルとギャル男の「チャラ打ち」は絶えることのない誘惑性の惹起であると言える。

ギャルとギャル男の「チャラ打ち」は、その保守性のただなかで、互いを分身として扱う異性間における同性愛のような事態(原文傍点)、ないし複数の回文を重ねズラすようなし得愛を極薄の理想として剥離するだろう。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.395引用)

そして最終的に以下のように纏める。

このような異性愛と同性愛の、相互浸透ではなく分離したままでの並立こそが、ギャル系ファッションにつきものであるキッチュに性的な記号をつぎはぎしていく「乱交的コーディネイト」の二重性格である。理由(特別なトラウマ)のない、というよりも正確には、多すぎるがゆえの忘却(原文傍点)にもとづいて、どうでもよくこだわってしまう(原文傍点)記号――これが「萌え要素」の私なりの再定義である――のつぎはぎ「記号的乱交 semiotic promiscuity」、それこそが、マンバやセンターGUYの身体のコラージュである。ギャル男の「極限形式」であったセンターGUYのヘアの、ギザギザでスカスカの「盛り」は、半面で、屹立した男根、すなわち「性別化というリアル」の印であるだろうとしても、同時にもう半面で(そのことを否定的に排除して)それは、ほんの小さな、トリヴィアルな欲望の多すぎる理由付けを遮断するいくつものの忘却線のイメージ(原文傍点)として解釈されなければならない。
だから、あなたにギャル男を愛していないと言わせない。その多すぎる理由づけを忘却しているからこそ、ギャル男は、あなたへの/あなたからの分離した分身であるかもしれないからである。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.395-396引用)

なるほどクールジャパノロジーとして括られるオタクとギャル男の欲望の形式が共通するというのはある一面においてその通りである。仮にあるオタクが強い倒錯を通じて、キャラクタ=記号の集合体の関係性の記号的乱交を楽しむ行為をしているのであれば、ギャル男を否定するのは難しいであろう。確かにそういうオタクも居る。だがそれでも”僕はギャル男を愛せない”と主張する。その根拠をこれまで詳しく検討してきた千葉雅也氏の論理の空隙を縫い、成立させていきたい。かなり引用にまみれた纏めであり読みづらいと思うが、それは私の纏めベタという原因もあるが、それと同じくらい反論に使用する為という意味合いもあることをここで言い訳する。

  • 批評3:あなたにギャル男を愛していないとは言わせない反論1

僕が反論の基礎として空隙をこじ開けるのは以下の部分からである。即ち動物化についての一つの分析である異性愛-生殖規範性、そして自然=本性への疑問から出発する。具体的には以下の引用部分が分かりやすい。

(3)異性愛-生殖規範性:(少なくとも男性オタクにおいて)結局のところ、動物化とは、人間の自然=本性としての異性間での生殖と不可分の異性愛規範性、すなわち「異性愛-生殖規範性」のしぶとい存続の再認に他ならないのである。
(『日本2.0』収録,千葉雅也著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」,P.391引用)

推測になるが生殖規範性という言葉は千葉雅也氏の造語かそれほど一般化されていない特殊な概念であると判断して良い。
ただ規範性という概念はそもそも性以外にも適用可能な訓育の汎用な装置として展開される。また性的欲望における規範性についても生殖という自然=本性的なものとして展開されず、人工的かつ優生学的な血統主義の補強として展開されている。その為、まず生殖規範性という概念を検討、批判していく。
規範性について基礎的な展開をした人物はミシェル・フーコーであり、『監獄の誕生』において”規範化 normation”という形で展開された。(規範化は後に"正常化 normalisation"に分けられ整理されるが、個人的にまだこの違いを明確に把握出来ていないので流す)

規範化という概念は権力分析に用いられる。制度自身が(『監獄の誕生』にて例に出されるのは監獄という制度である)表出するような自己認識に沿って、制度を理解してはいけない。監獄という制度は失敗したかのように見えるが、社会全体には確かに影響を与えている。その為、制度という戦術=装置の次元での失敗に囚われるのではなく、社会全体として通底する戦略として捉える必要があり、その戦略の装置こそが規範化であった。この規範化は『性の歴史Ⅰ 知への意思』にて性の領域へ拡張されていく(フーコーの議論の中で)。ミシェル・フーコーによると性的欲望の装置の社会への組み込みは階級の自己確認として機能し、ブルジョワジーが自ら発明した権力と言説のテクノロジーによって自分自身の性に地位を与えるという仕組みをまず率先して自らの階級へ導入し、ついで他の階級への導入を扇動することにより、その仕組みの中で、ブルジョワジーの身体の希少性を生み出す性に対して政治的な高い価値を認めさせることを目的にされたとしている。この性的欲望の装置に組み込まれたモジュールこそが規範化であり、その規範化が展開される場(ゲームの場)の一つが家庭であり、またその賭金=戦略上の拠点として焦点が当てられたのが婚姻という制度である。
詳細な議論は面倒なので省略するが、大雑把に纏めると中世的キリスト教的な婚姻制度は背後にある教会の正当性によって保証されていたが、その陰となる非-異性愛規範性は公的には認められることもなく、また制度への組み込みもあくまで運営上の効率を上げるという形でのみ教会から利用されていた。
それに対して規範化はそもそも婚姻の正当性に根拠を見出していない。多様な性的欲望を異常性欲と分類し、異常性欲ではないと自ら家族の構成員、特に女性が精神科医に対して告白という装置を通じて、自らが異常性欲を持っていないという認証を得るもしくは健全な性を体現する為の教育を受けることによって、理想でしかない正常な性欲の一般化とそしてそれを支える異常性欲に対する規範化の関係を成立させている。
ここにおいても婚姻の制度はそもそも失敗するものとして想定されていることが分かると思う。
つまり"異性愛規範性"の社会への近代的導入の結果、婚姻制度は多くの破綻の可能性を秘めているというよりはそもそも破綻するように仕向けられていると想定して良い。
宮台真司氏の言葉を借りて表現するのであれば、破綻を回避する為に必ず大きな物語を参照する必要があると。言い換えるとそもそも異性愛規範性に代表される近代的な婚姻制度自体がそもそも現実において「かのように」実現を求められたが、それは過剰な外部への参照によってのみ成り立つ罅の入った制度であるといえ、そしてフーコーを参照すると近代に導入された異性愛規範性については生殖に直接的に接続されていないことが分かる。あくまで本来的に生殖の周辺にあるとされた性的欲望、その中でもアウトサイドである異常性欲に狙いを定め、生殖そのものは間接的にしか権力からの影響を受けない。故に以下が導きだされる。
(a):異性愛規範性と異性間での生殖は必ずしも結びつかない

自然=本性としての異性間での生殖という記載があるが、そもそも異性間での生殖が自然=本性であるというのは事実であろうか。
これは自然=本性に同性間での性交があると指摘しているのではない(あるかもしれないが、生殖は出来ない。性転換する生物も居るが知らん)。そうではなくて、自然において生殖とは群の中で生き延びた男女間にて実施される行為であり、食物連鎖のピラミッドの下層に近づくにつれて多くの個体が生殖に辿り着く前に群全体の生存確率を上げるために犠牲になっている。つまりそもそも自然において異性間での生殖は当然の権利でなく、生存競争に生き延びた結果得た権利なのである。
そして日本において明治以降に導入された異性愛規範性は異なった異性愛規範性との衝突を起こしたことがある。それは”夜這い”と呼ばれる村社会における一妻多夫制や、”祭”にて開かれた乱交、つまり多妻多夫制との衝突である。この衝突は個人に相続する財産がなく、村社会共有の財産が優先された結果、誰の子であるかは問題にされず、村社会を継続するための担い手として共同によって育てられていた村社会に、個人財産の継承を目的とする一夫一婦制を導入した結果発生したと言える。(社会の存続の多様化は明治以前ではそもそも成立していたと考えても良い。社会の存続の多孔化とは近代の均質的な社会存続方法を、近代以前の多様な社会存続方法を掘り起こして、選択可能にしている状態だとも言えなくもない)
また規範化の悪例であるナチのレーベンスボルン計画を例にとると分かりやすいが、規範性優生学的な社会を形成するさいに「アーリア人」の条件を満たすとされた子供を誘拐し、ヒトラーユーゲントの養子にしたことを考えれば、近代以降異性愛規範性において国民それぞれの血統の正当性を問われることはあっても、生殖の有無を問うことが必ずしも必要でないことが分かる。
特定のケースにおいて異性愛規範性を保持していたとしても、直接的な生殖による親子モデルに相互扶助ではなく、生殖を問わず社会に対する間接的な貢献を問われていると解することが出来る。
(b):異性愛規範性においても生殖以外の社会の存続手段が使用される

この二つから何を引き出したいか。
迂回するが東浩紀氏はtwitter上で「「幼稚なのやめて大人の男になろう」ではなく、「幼稚なぼくでもどうやって家族を守り生きていくことができるか」」という内容を呟いたのを覚えている。僕が『日本2.0』にて期待しているのもこれである。このような日本的未成熟=幼稚性の問題をポジティブに捉えていこうとしたこの態度に期待を寄せている。
ここまで言えば分かって頂けると思うが、僕はこう提議する。”オタクはそもそもジェンダー二元性を確立していない、性的欲望が未成熟な存在である”。僕はこの次元に立って、千葉雅也氏の論文に反論していく。
補助線を一本引いていく。性的発達段階における男根期に至る前に肛門期がある。フロイト氏は以下のように指摘している。(どうでもいいけど中山元氏のインタビューが思想地図に掲載しないかなぁ)

性欲動の一般的な特性については、次のことを確認できる。性欲動は、多数で多様な器官を源泉として発生するものであり、最初は互いに独立して活動するが、その後である程度まで統一的なものとして統合される。それぞれの性欲動が目指す目標は、器官快楽(原文傍点)の充足である。完全な統合が実現された後に、性欲動は初めて生殖機能に奉仕するようになり、性欲動として一般的に認識できるようになる。
(『自我論集』収録,著:S・フロイト,訳:中山元「欲動とその運命」,P.24引用)

男根期における抑圧に至るにはそもそも肛門期における器官快楽の統合による生殖機能の稼働を介さなければならない。性欲動≒性的欲望は個々の器官快楽の充足をばらばらに行なっている際には生殖器官へ奉仕することはないとしている。
話を本筋に戻すと「性別化というリアル」への根本的な分からなさに対する上記オタク(以下、β版オタクと記載)の反応は”硬直”であると私は定義する。
β版オタクは神経症的な現実に直面した際に記憶の絡まりの一部を抑圧することが出来ない。ただしそれを告白するように、自己批判するように煽られ続ける。その結果、”硬直”を起こす。
「性別化というリアル」の棚上げに失敗したβ版オタクは未成熟な存在であり続ける。しかしいつまでも”硬直”しているだけでは、ジェンダー二元性を確立出来た人達と齟齬が大きくなる一方である。
その為、偽装の為に”萌え”=強い倒錯の回路を導入する。強い倒錯は前提として「性別化というリアル」の否定を行い、精神科医という告白の装置を通さずに直接的に記号的乱交に導いてくれる。ただしここには性的欲望の成熟は存在しない。
その為、東浩紀氏の提示した認知的習慣化を利用する。しかし性的欲望が未成熟である為、対象=事物への中毒的なこだわりに陥ることでしか性的欲望の成立をそもそも表現出来ないのではなかろうか。
異性愛-規範性を体現することは出来ない。だからあえて動物化し、中毒化することによって、異性愛-規範性でないという主張を初めて成立させ、性的欲望の未成熟な状態を隠蔽していると指摘出来るのではないだろうか(動物化が先か、動物化を擬態化をしたのが先かは別に原因-結果でも構わないので考察しない)。
またβ版オタクが異性愛規範性への存続の再認を行い続けるのも同様の理由であると推測可能である。それは多様化する性的欲望に対して参入不可能であった為に、過去に大きな物語として参照された異性愛的規範に縋っているのではないだろうか。β版オタクとしても異性愛的規範が批判の対象になっていることは重々承知しているそれでもあくまで”かのように”それを選んでいるというカモフラージュをしているのではないだろうか。
つまりそもそもβ版オタクは人を人として愛せない、苦心して愛することが可能だと振舞っている存在であることが導かれる。
このような存在であるβ版オタクは”僕はギャル男を愛さない”、正確に言えば”僕はギャル男ですら愛せない”。
そしてギャル男は全てのオタクの分身ではない。ギャル男はジェンダー二元性の摩耗を女から男への/男から女への分身たちのゲームへと軽めることによって達成する事が可能であるが、β版オタクにはそもそもジェンダー二元性が確立されていないから同様のプロセスを行うことが不可能である。これは言い換えるとギャル男は分身たちのゲームから降りることによって、ジェンダー二元性を復活させることが可能であるが、β版オタクにはゲームから降りる方法がない不可逆的な存在である。この両者の違いが分身性に罅を入れることとなっている。

  • 補考:

このようなβ版オタクを内包したオタクの心情=”僕を愛して下さい”を投影し、ヒロインによって明確に拒否した作品がある。『新世紀エヴァンゲリオン』である。

これまで散々、批評の空間にてこの作品に対する批判や検討を通じて膨大な言説の産出が行われた。今更それらを再検討する気は一切ない。ここで確認して欲しいのは遠慮容赦のない批判が『新世紀エヴァンゲリオン』を通じて行われたという点だけである。
この『新世紀エヴァンゲリオン』を通じてあるコンセンサスが共有されることになった。オタクは現実での性的欲望の確立に失敗している。そしてアニメのヒロインとの擬似的恋愛すら否認される。
つまり”オタクは恋愛の不可能性を前提としなければならない”というコンセンサスがここで始めて明確化され、解決されるべき問題として徐々にオタクへ浸透していったと考えている。
この問題が提示され、回答がオタク側から出される期間がポストエヴァと呼ばれる期間と再定義すると、ポストエヴァの期間において最も隆盛したライトノベルというジャンルから『イリヤの空、UFOの夏』にて回答が提出されることによって始めてβ版オタクが表面化される。個人的な意見であるが『イリヤの空、UFOの夏』は一度として評論にて正当な評価を与えられていない。それは”セカイ系”や”ライトノベル”について定義に関わる問題でもあるので詳しく『イリヤの空、UFOの夏』の再検討を通じて、”セカイ系”や”ライトノベル”を再定義し直し、β版オタクの試みを把握し直すことが必要である。
ライトノベルに対する評論の少なさはその影響力に対して、異常なほど応答がない。SFのパロディとして需要された『涼宮ハルヒの憂鬱』を除けば、ゼロ年代ライトノベルに対する批評は数えるほどしかない。”ライトノベル”が「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」とする定義が未だに通用しているのはどうかと思う。ライトノベル”は愛される自己像の否認、つまり恋愛の不可能性を前提にした主人公が、いかにそれでも否定された恋愛の方法以外にてヒロインと恋愛を成就させるかを問う恋愛小説に他ならないと思うのだが。
これにならって”、本稿では”僕はギャル男を愛せない”というライトノベル的表現をしたというオチ。

β版オタクは『イリヤの空、UFOの夏』によって、『新世紀エヴァンゲリオン』まで脈々と続いたオタクの流れを一度断ち切ることを試みている可能性について展開する必要がある。
β版オタクは『新世紀エヴァンゲリオン』を通じて行われた批判を受け入れつつ、自らを診断していく。その過程で成立した作品群が”セカイ系”であると言えると思う。
この簡単な総括は前島賢氏の総括を短縮したものである。以下が引用である。

新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、1990年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群
(『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』,著:前島賢,P.129-130引用)

セカイ系の概念についてはwikipedeiaの”セカイ系”のページ、特に東浩紀氏らの定義を見て頂くのが一番手っ取り早い(前島賢氏の『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』を購入してもいいが、版元及びAmazonにも在庫がないのでオークションで手に入れる必要があるので素直にwikiで我慢するのが吉だと思う。ただ前島賢氏のセカイ系に対しる「みずからのジャンルの虚構性、チープさを明らかにした上で、なおかつ真摯な物語を語ろうとした」という素朴な総括は大筋では間違っていないと個人的には思う)
セカイ系 - Wikipedia

横着をして上記リンクから引用するが”セカイ系”の定義とは概ね以下のようになっている(宇野常寛氏の決断主義は微妙に後で取り上げていくが、ここでは記載しない)。
(1)東浩紀氏:セカイ系とは「「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」
(2)元長柾木氏:セカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群のこと
これらの定義を抜本的に見直し、シャカイが存在しないセカイ系ではなくネグリ的な政治領域の消滅によるシャカイしか存在しないセカイ系への再定義を行なっていくがそれはまた次の機会にしていきたいと思う。そして”僕は愛されることはないが、それでも愛したい”という新しいオタク像の描写が出来れば幸いだなぁと思う。
(何故なら千葉雅也氏の論文に直接関係がない上に、私に根性がない。)